6 ティナ・ラーナー

ティナ・ラーナー(一八八九―一九四八)は、ロシア(現ウクライナ)オデッサ出身のピアニスト。オデッサで学んだ後、モスクワ音楽院に十歳で入学。一九〇五年にベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番≪皇帝≫でデビュー。その後、ロシア、ドイツ、イギリス、南北アメリカをツアーし、各地で有名なオーケストラと共演した。ピアノロールを十五作品残している(ショパンの作品が多い)。しばしば「女性版パデレフスキ」と呼ばれた。ピアノを弾いて何百キロも離れた洋上の人に無線で音を届けた最初の人でもある。

聴衆は最高の教師

ラーナー嬢は、長期にわたるアメリカ演奏旅行の大詰めで多忙なスケジュールのなか、ピアノの重要なトピックについて話す時間をとってくれた。私たちはまず、現役ピアニストたちにみられる多種多様な手の構え、指の動き、タッチについて話した。

「私がピアノを指の腹で弾いているのは事実です。必然的に手首は低くなり、手は平らになります」

ピアニストは指をまっすぐに伸ばしたまま、珠のような音階を弾いて実例を示した。

アーネスト・ハッチソン

「でも最近までこんなふうに弾いているとは知りませんでした。ボルチモアのピアニスト、アーネスト・ハッチソン氏(*)が指摘してくれて初めて知ったのです。私としては、自分にとっていちばん自然で楽な体・腕・手・指の姿勢を常にとっているだけのことです。いろんな教師からああしろこうしろと言われてきたにもかかわらず、五歳でピアノを始めたとき以来、ずっとこうなのです。初期の教師たちが賢明で注意深かったのは幸運でした。やるように言われたのは古典的な曲ばかりでしたし、難しすぎる曲はやらせませんでした。私は偉大なピアニストが従っている原理は正しいと信じていますが、私は自分にとって自然な方法に従ってきました。だから手の姿勢は個人的なものです。こんな指の姿勢で演奏している人は他にいないでしょうね。この点で私は独特です」

(*)アーネスト・ハッチソン(一八七一―一九五一)は、メルボルン出身のピアニスト・作曲家・教師。ジュリアード音楽院で教鞭をとった(一時期、学長も務めた)。

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レシェティツキ

「理由はわかりませんが、私はレシェティツキに学んだと人から思われるようになってきています。しかしこの説は、私がそもそもウィーンに行ったことがない言うだけですっかり論破されます。私たちは偉大な教師の名に頼ろうとする考えから抜け出す途上にあると思われます。本来、問われるべきことは、その演奏家がどんな能力を持っていて、何を成し遂げられるのかということであって、その人が誰に学んだかということではありません。私たちはレシェティツキの有名な門下生たちのことを知っています。しかし話には出てこないけど、彼のもとでどうにもならなかった門下生も何千といるに違いないのです」

「教師ができることは限られています。教師は生徒に新しい観念を与えることができるでしょう。しかしそれをもとに、生徒それぞれが自分自身のために、そして自分自身の方法で努力していくのです。ピアノ学生はあらゆることから学びます。ピアノリサイタルを見に行き、タッチ・音色・フレージング・解釈についての多くの着想を得る。偉大な歌手やヴァイオリニストの音楽を聴き、まったく新しい考えを吸収する。あるい大オーケストラの音楽を聴き、他のどんなことから得るよりも多くのものを得る。そして人生から――経験から、生活から、愛することから――学ぶ。すべてが音楽家としての仕事のなかに流れ込んできます。音楽という仕事は実際、あらゆる職業のなかでも最高に努力を要するキャリアなのです」

「『音楽が好きな人』と『音楽に詳しい人』とでは、どちらの聴衆のために演奏するほうがいいかとよく尋ねられます。一番良いのは、両方の聴衆がちょうど半分づつ集まっている場合でしょうね。どちらかというと『音楽に詳しい人』のほうが好ましく感じられます。なぜならこのタイプの人たちは、たとえ厳しく批判してくるとしても、演奏上のポイントをわきまえていますし、また、演奏者が何に向かって努力をしているのかがよくわかっているからです」

「『音楽に詳しい人』たちは、『これこれという演奏家は好き《like》ではない』などという言い方をしない。ピアニストになるためににどれだけ多くの時間とエネルギー、努力と才能が必要かを理解しているからです。彼らはむしろ『これこれというアーティストの演奏のほうが好み《prefer》です』と言う。偉大なアーティストを語るとき、『好き』という語を使うのはほとんど侮辱のように見えます。そのアーティストの演奏を『好き』でない人がいたとして、何か問題があるでしょうか? アーティストは自分の演奏が、持てる力を発揮した最高のものだと自分でわかっているのです」

「そして結局のところ、アーティストにとって最高の教師は聴衆です。私は何にもまして聴衆という教師から多くのことを学んできました」

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「私はこの『学校』で、聴衆が何に感動するのかを、パッセージをどう改善させるかを、どうしたらもっと壮大なクライマックスにできるかを、どうすればより共感してもらえる色彩にできるかを、学んでいるのです。というのはこうです。ある曲がどう聴こえるように演奏するのがよいのか把握するにあたり、私はその曲の勉強中、まず曲全体に通底する観念を得ます。それからその観念を、可能な限り完璧に近いものにします。だけどそれを実地に試してみなければいけません。聴衆の反応を知らなければならないし、聴衆からお墨付きを貰わなくてはいけないのです。この『学校』で演奏を繰り返して、演奏が磨かれたとき、心のなかで解釈が結晶化します。そしてその曲をいつもほぼ同じように演奏できるようになります」

芸術作品のイラスト「画家は絵を展示するたびに、それに手を加えたり塗り直したりはしません。だとすれば演奏家も、曲を演奏するたびに解釈を変える必要はないでしょう。そのときそのときのインスピレーションにあまりに信を置きすぎると、演奏が全体として損なわれてしまう可能性があります。理想の解釈を苦心して作り上げ、それが心にある場合、つねにこの解釈の精神にのっとり、最善を尽くして演奏することは、私にとって神聖な義務となります。ボストンやニューヨークなどで演奏しているからといって、小さな町で演奏している場合よりも懸命に完璧を目指さなくてはいけない、などと私はどうしても考えられません。そうではないんです。どこであろうとも、私は自分のベストを尽くさなくてはいけない。リサイタルの前は緊張するかと訊かれることがたまにあります。私は人がこわいということはないんですが、演奏のときに自分の理想を表すことができるかということはいつも気になっています」

「私はほかのどの国よりもアメリカで演奏するのが好きなんです。アメリカの人には真の鑑賞眼や理解力があるからです。このことは音楽が盛んな都市で言えば世界のどこでも同じなのですが、小規模な都市については差があります。小都市ではヨーロッパよりアメリカのほうが音楽的にずっと進んでいる。私はこれが本当だと繰り返し確かめてきました」

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「そう遠くない昔、私は住民が二千人ほどしかいない小さな町で、二度リサイタルすることになっていました。その町に到着して、殺風景なホテルを目にしたとき、『ここの住民はピアノリサイタルに何か望めるだけの素養を持っているだろうか』と私は訝りました。しかし演奏する大学に行ってみると、賢そうな聴衆がたくさん集まっている。かなり遠くからわざわざ足を運んで見に来た人もいる。こうした状況をみて、私は今度の音楽会がどのような狙いで開かれているのかを理解しました。この学校の教師は、ウィーンでレシェティツキに九年間学んだ立派な音楽家でした。生徒たちはプログラムの曲をしっかり理解していました。音楽に対して目が開かれていたし、音楽事情にもよく通じていたのです」

ハイドン・ウッド

「最近のピアニストはオーケストラとの共演が多いですが、現代の協奏曲が少ないという問題に突き当たっています。十曲か十二曲程度の有名な協奏曲が何度も繰り返し演奏されているだけで、新作の演奏はめったにありません。新しいものはもちろん書かれているのですが、聴衆の好みにはなっていないのです。ラフマニノフの美しい協奏曲第二番は、最高の鑑賞眼を持つ聴衆がいるような音楽の中心都市においてさえ成功していない。しかし最高の音楽家たちを招いて小さい部屋で演奏してみれば、彼らはこの曲の美しさに間違いなく感銘を受けます。私はいまハイドン・ウッド(*)の新作協奏曲(*)に取り組んでいるところです。ほら、ピアノに自筆譜が置いてあるでしょう。とても美しい曲です」

(*)ハイドン・ウッド(一八八二―一九五九)は、イングランドの作曲家・ヴァイオリニスト。原文ではHaddon WoodだがHaydn Woodのことと思われる。
(*)ピアノ協奏曲二短調。

さらに会話を続けると、アーティストは次のようなことを語ってくれた。

「私が音楽を始めたのは四歳頃だと言えるかもしれません。与えられた八鍵のおもちゃのピアノでロシア国歌を弾いたのが最初です。ピアノをやっていた姉がこれに気づき、音についていくつか教えてくれました。それから私はいつも、ちょっとした曲を聴き覚えて弾いていました。とうとうある日、姉を教えていたルドルフ・ハイム [不詳] が、主に私のことでうちに来ました。これは、私が生まれて幼少期を過ごしたロシア南部のオデッサでのことです。ハイムはこのとき、私の腕前を確かめたがっていましたが、あいにく私は急に恥ずかしくなって泣き出してしまった。弾くよう促されても私は動かない。それで演奏を見てもらうのはお預けになりました。幼いころですら頑固だったのがおわかりかと思います」

若手ピアニストはチャーミングに笑いながら言った。

「このすぐ後に、私はハイム教授のスタジオへと連れて行かれました。彼は私の演奏を検討し、才能があるから育てるべきだと考え、私を生徒として受け入れてくれました。五歳のときです。私の本当の音楽教育はこのとき始まったのです」

「私はまさに最初から、自分にとっていちばん便利で快適だと思うような手の姿勢をとっていました。それとは逆を行くどんな教えもアドバイスも、私にこの手の姿勢を変えさせることはできないまま、今まで来ています。音階やパッセージは手を低くし、指を平らにして弾きます。それが私の手に一番合うみたいだからです。練習のときはどんなものも、こぶしの関節から指を高くまっすぐ持ち上げて、すごくゆっくり弾きます。これが私に明瞭さと安定を与えてくれます。速いパッセージのときはアクションは減りますが、手の姿勢はそのままです。『明瞭で真珠のようなタッチを自在に操る。大作向けの力強さも十分備えている』。私はこんなふうに評されています」

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モシェレス

「最初の教師ルドルフ・ハイムはモシェレス(*)の門人でした。彼に五年学んだ後、私はモスクワ音楽院に入学し、パプスト教授のもとで勉強を続けました。十歳の頃です。教授は作曲家パプスト(*)の兄であり教師でもあった人です。パプスト教授は非常に保守的で厳格な人で、彼には昔の巨匠の楽譜をずっと勉強させられました。しかしこの種の音楽は私に合っていると思います。少なくとも楽しんでいます。私はここでさえも、自分の手の姿勢と、鍵盤への触れ方に固執しました。今後もこれを貫くつもりです」

「この教授に六年教わった後、演奏家としてのキャリアをスタートさせました」

(*)イグナーツ・モシェレス(一七九四―一八七〇)は、チェコ出身のピアニスト・作曲家。メンデルスゾーンと深い親交があった人物。
(*)パーヴェル・パプスト(一八五四―一八九七)は、東プロイセン出身のピアニスト。ラーナーはこの人物の兄に学んだいうが、兄については不詳。

「今している練習とその方法をお尋ねですね? コンサートが終わって休みに入ると、私はたくさん練習をします。時間をすべて練習に費やしていると言いたいところですが、それはとても無理です。技術練習に一日一時間、あるいはそれ以上使っています。練習の素材としてはショパンのエチュードをいつも使っています。指を伸ばしたまま高く上げながら、とてもゆっくりとしたテンポで弾きます」

Fridericus Chopin: imago

「ショパンのエチュードには、オクターブ、アルペジオ、音階、三度や六度の重音、 [作品十の] 七番のような連打、分散和音、パッセージ練習など、ほとんどすべての技術的な課題が出てきますし、私は日々の練習に使っています。これに加えてリストの≪超絶技巧練習曲≫もいくつか使います。バッハを使うのは言うまでもありません。このような素材を使う利点は、全然飽きが来ないということです。つねに興味深くて美しい。これらの作品が手に十分なじんでいれば、いつでもリサイタルできる状態になっているといえます。あとは何か特別の曲や現代の曲を付け加えるだけでよいのです」

「新しい作品を覚えるとき、私はまず作品の意味に慣れ親しもうとしながら、かなりゆっくり学んでいきます。その作品についてのイメージを作り、発表したいと思うときまで何ヶ月もその曲とともに生活を送ります。そしてその曲の理想的な演奏のあり方を考え、細部にわたって仕上げていきます。その後は、いつもできるだけ理想に近い演奏をするように努めます」

(ラーナー演奏のショパン単曲。試聴可)