12 トバイアス・マッセイ

トバイアス・オーガスタス・マッセイ(一八五八―一九四五)は、イギリスのピアニスト・教師。王立音楽院で学び、卒業後は長く教鞭をとった。門下からマイラ・ヘスやハリエット・コーエンなど優れたピアニストを数多く輩出している。十年の研究の末に著した技術書『タッチのすべて(The Act of Touch in all its Diversity)』はピアノ界に大きな影響を与えた。他にも『音楽的な解釈(Musical Interpretation)』を含む数冊を著し、国際的な名声を得ている。またマッセイは自身の名を冠した音楽学校を創設している。作曲家を支援する「英国作曲家協会」の創設にも携わっている。

アーティスト・教師の仕事中に立ち会う

私がロンドンに着いて最初にしたことの一つは、作曲家・教師であるトバイアス・マッセイを探し出すことだった。この人物の名声は大西洋を越えて私の所に届いていたからである。

マッセイは、ピアノ技術の原理を非常に明快で簡潔なものにするために多くの業績をあげてきた。彼の原理は子供でも理解できるものである。もし彼が、一部の人からは画期的とみられる方法で真実を述べてきたのだとすれば、そのわけは、平凡なピアノ教師が真実をなかなか理解しないからである。

彼が成し遂げてきた仕事は自ずと人々の注目を浴び、称賛もされた。彼の考えたことは現在、否定できない真実として、最初それを批判していた人たちによっても受け入れられている。マッセイの著作がしばらくするとアメリカで、今以上に知られるようになるのは間違いない。著作には『タッチのすべて』『ピアノ演奏の第一原理』『リラックスの研究』『子どものピアノ演奏の初歩』『指づかいの原理とペダリングの法則』『前腕の回転の原理』、印刷中の『解釈教育の原理』などがある。どれも包括的な研究である。タイトル自体が刺激的で示唆に富み、マッセイが教育の方面における深い思想家だということを示している。

マッセイの活動は幅広い。王立音楽院(RAM)(*)の上級ピアノ演奏の教授であるうえ、自分自身でもピアノ学校を創設し、その学長を務めている。マッセイは早朝から夜遅くまでとても忙しいので、言葉を交わす機会を持つことはほとんど不可能である。それでも私は幸い、一時間の面会許可を得た。さらに、王立音楽院における各種個人授業を参観することも認められ、また、数多くの生徒たちのリサイタル演奏を聴くことも許可された。

(*)王立音楽院(RAM)は著名音楽家を多数輩出している、ロンドンの世界的音楽学校。一八二二年にその母体が創設され、一八三〇年に王立の名を冠することを認められた。

スティーヴンソン

マッセイの容姿は個性的で、強く印象に残るものである。その頭や顔の造作は、ロバート・ルイス・スティーヴンソン(*)の肖像を思い起こさせる。大柄で筋肉の発達した体躯は、学者風の猫背である。昼も夜も仕事のため椅子に座っていなければならない人だということを思えば、特に不思議なことではない。マッセイの応対はいくらかぶっきらぼうだったが、彼が本当に興味を持つトピックになるととても親しく接してくれた。生徒と語らうときの彼はいつも優しくて共感にあふれていて、励ましを与えるような調子だった。一方の生徒たちはマッセイを非常に尊敬していた。

(*)ロバート・ルイス・スティーヴンソン(一八五〇―一八九四)は、イギリスの小説家。『宝島』『ジキル博士とハイド氏』などが有名。

マッセイは正当にも、次のように信じている――入門したばかりの生徒は、ピアノで実際に何か弾こうとする前に、音価・リズム・速度・聴音など、不可欠な要素を学ぶべきである、と。最初は生徒にピアノを見せながらそのメカニズムを、そして真に音楽的な音を生み出すためにしなくてはいけないことを、注意深く説明するのだ。『子どものピアノ演奏の初歩』のなかで彼はこう言っている。

「音を生み出す最初のステップに入る前に、こう心に刻んでほしいと思います。『音楽を奏でようとすることなしに、決してピアノに触れてはいけない』と。音楽を奏でることなしに音を出すことは、あまりにも簡単です。音楽を奏でるには、すべての音に何らかの意味を持たせる必要があるのです。唇を使って音を出しても、それが理解できる語句・文章になっていない場合、話すふりをしても無駄でしょう。これと同じことです」

ここで曖昧なままになっていることは一つもない。マッセイは、あらゆる音形が暗に運動・前進を意味していることを明確に示している。たとえばフレーズは終止形に向かって動き、ひとまとまりの音符は先にある拍に向かって動き、曲全体はクライマックスに向かって動いている。彼がここ二十年提唱してきた、形式に関する独創的な見解は、今やイギリスの最先端の理論家や教師たちにも広く受け入れられつつある。

マッセイはキーのメカニズムに関して、また様々なタッチ・音質の生み出し方に関して、包括的に研究してきている。『ピアノ演奏の第一原理』で彼は次のように言う。

「キーに関して、技術的な規則は主に二つあります。その一つは、『キーがあなたに対してどれほど抵抗をみせているかをいつも感じ取りなさい』、つまり『キーがそれぞれの音を出すにあたってどれほど力を欲しがっているかを感じなさい』ということ。もう一つは、『あなたが自分の努力を――キーの底にではなく――音だけに注ぐことができるようにするため、耳を澄まして各音が始まる瞬間を捉えなさい』ということ。あなたは決してキーを叩き下げてはいけませんし、また指をキーに叩きつけてもいけません。指先をキーの上にそっと落とすのです。指がキーに届いたら、そのままキーに逆らって指の落下を後押しするのです。キーに逆らうこのアクションは、キーを動かす――やり方によって音質は様々でしょうが――ということだけが目的でなければいけません。常にこのアクションは、キーが下がって音が鳴り始めるポイントを目指して行う必要があります」

この著作から要約を引用しておこう。

(一)ピアノで音を出せるのは、キーのハンマーの先端を動かすことだけによる。
(二)素早い動きであれはあるほど音量は大きくなる。
(三)この素早い動きを、漸進的《グラジュアル》にできればできるほど、美しい音質になる。
(四)華やかな音を出すには、キーを通じて「弦を」打つのであって、間違っても「キーを」打つのではない。
(五)キーを打つときにめざすのは、音の立ち上がりである。音が立ち上がった時、ハンマーはすでに弦から離れ落ちていて、それ以降は音に影響を与えることはできないからである(音の維持を除く)。
(六)キーの底を押さえ付けるのは間違いである。これは音の邪魔になって、音楽としての出来栄えを損なううえ、速い演奏を阻み、さらに疲労の原因にもなる。
(七)キーが「抵抗しなくなるポイント」を感じるようにしなさい。そうすれば各キーで必要な力加減がわかるようになる。このためにも決してキーを打ってはいけない。

マッセイ氏は、タッチと技術における筋肉の動きに関しても、同じく詳細に指針を与えている。たとえば彼は、良い音も悪い音も含めて、あらゆる種類の音がどのようにして生み出されているのかを説明している。ほかにも、音の持続のあらゆるバリエーションのこと、敏捷性を身につける方法、技術的困難を克服する方法を説明している。これらがうまくいかない場合に筋肉のアクションにどのような問題があるのかも解説している。

自由になった腕の重みがどこに適用されるべきか、そして腕の重みをどこで解いたらよいかも示し、また「真っ直ぐな」指のアクションと「曲がった」指のアクションが担っている対極的な技術形式をはっきりさせてもいる。さらにマッセイは、前腕の回転運動というほとんど理解されていない問題にも徹底的に論じ、前腕の回転を正しく適用することが、どの音を出すにあたっても必要不可欠であることを証明してみせる。

ピアノ教育のメソッドについて語るなか、マッセイ氏は私にこういった。

「私は何のメソッドも持っていないと言えます。さらに言うと私は、メソッドを持ってる人をあまり信用していません。私の教育は、どうすれは良い演奏になり、どうすれば悪い演奏になるかを示しているだけのことです。とはいえ、どの演奏家も知っておいたほうがよい原理はあります。しかし残念ながら、その原理は最高の教師によってすら、いまだにほとんど理解されていません」

「偉大なピアニストたちは、再現可能な効果(すべての条件が揃っていて、そのように演奏したいという場合のそれ)を見出すまでに、いろいろと実験してきています。概して彼らは、こうした効果の根底にある法則を知りません。たとえば偉大なピアニストに、オクターブの演奏はどのようにやるのか訊いてみるとします。するとその人は『ああ、オクターブはこんなふうにやるんだよ』といって実演してくれますが、どうすればできるのかを説明できません。私もたくさん実験をしてきた口ですが、つねに『どういうふうになされているのか』を発見しようという観点を持っています」

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アントン・ルビンシテイン

「実際に音を生みだすこと、演奏することは、事実と法則に支配されています。私はルビンシテインの演奏を研究しました。彼が私より遥かに素晴らしい演奏をしていると思ったからです。彼の演奏に耳を傾けることによって、私は多くのことを発見しました。ルビンシテイン自身にはそれを説明することができなかったでしょう。見出した事実は争う余地のない明白なものです。これによって多くの仲間が事実の真相を見る気になってくれましたし、それだけでなく、私より年上の仲間――その人自身にとって邪魔になるような誤った心癖《こころぐせ》を持っている人たち――さえも、私の教育の真実を理解する気になってくれました」

「教師の業績は、業績自体が物語っているはずです。私の方では決して宣伝しません。というのも私の門人には、コンサートピアニストになったり教師として成功したりして、コンスタントに人前に出ているような人が何百人もいるからです。この数はまったく誇張ではありません」

「私が憤りを感じるものが一つあるとすれば、それは無能なピアノ教師があまりにも多いことです。彼らは生徒にこう言うのです。『君の演奏はなってない。もっとうまく弾きなさい』と。しかしその教師は、どうすれば演奏が良くなるのかを生徒に教えることはできない。彼らは生徒にいろんなエチュード、ソナタ、小品をあてがうのですが、問題の核心に触れることは決してない。ニセモノの声楽教師のほうがまだましですよ。くたばれ! と言いたいぐらいです」「ドクロ 無料素材」の画像検索結果

私は光栄にも、王立音楽院で開かれたマッセイ氏の個人授業に何度か同席させていただいた。メダルの受章をかけて生徒たちが競い合うことになっていて、参加者全員が同じ曲を弾いていた。シュトラウス(*)(タウジヒ(*)編曲)のヴァルス=カプリス(*)の一つだった。

(*)ヨハン・シュトラウス二世のこと。
(*)カール・タウジヒ(一八四一―一八七一)は、ポーランド出身のピアニスト。若くしてリストの演奏旅行に同行した。
(*)≪ウィーンの新夜会(ヴァルス・カプリス第一番―三番)≫のこと。タウジヒがヨハン・シュトラウス二世のワルツ三曲(作品一五七≪蛾≫・作品一六七≪人生は一度きり≫・作品二五〇≪投票≫)をもとに書いた。

マッセイは生徒の演奏を最後まで聴くと、最初に戻ってもう一度検討しなおして、生徒に修正点を指摘したりアドバイスしたりした。脇目も振らずというほどの熱心さである。頭と手の動きで指示するその様子は、指揮者がオーケストラを指揮するときのようだ。「もっと力を」と言わんばかりに、高音部で和音を打ち鳴らすこともあった。より柔らかな音が欲しい箇所では、演奏者の腕を掴んで抑えることもあった。しばしば青鉛筆で、いそいそとフレージングの印を書き込んだ。小休止になると、曲の性格や、望ましい効果について生徒と話し合った。手短に言えば、マッセイのレッスンは非常に役立ち、勉強になるものだった。

私は生徒の「練習コンサート」にも参加する機会を得たが、それは実に驚くべきものだった。少年少女たちがグリーグの『二台のピアノのための変奏曲』やウェーバーの『舞踏への勧誘』、それにショパンやリストの作品群などの難しい曲を正確に、そして流れるように弾いた。選ばれたほぼすべての曲が暗譜による演奏だった。音色はつねに音楽的で、しばしば非常に力強いものだった。生徒たちは自分がしていることや、楽曲の意味をすっかり理解しているようだった。間違いなく彼らは、「音楽を奏でようとすることなしに、決してピアノに触れてはいけない」という、マッセイ教授の金言を体現していた。

それから間もなく、私は印刷されたばかりの新刊を一冊受け取った。正確なタイトルは『音楽的な解釈とその法則・原理、及び、教育や演奏会へのそれらの応用』。講義がもととなった本である。リクエストが多かったため書物として刊行された。マッセイは最初から、このような複雑な問題を包括的に扱おうとは考えていなかったにせよ、それでも次の七つの論点を選んで解説した。

(一)練習することとただ楽器を鳴らすことの違い
(二)教えることと詰め込むことの違い
(三)どのようにすればしっかり練習に取り組むことができるか
(四)拍と音型についての正しい観念
(五)ルバートの原理とその応用
(六)音の持続とペダリングの原理、およびそれらの応用
(七)音の多様性という原理の適用に関する詳論

思慮深い読者は、こうしたテーマを前にして立ち止まって考えさせられることになるだろう。マッセイは人を啓発するような独創性でもって、これらのテーマを扱っている。この教師の偉大な目的は、正しい線に沿った思考を読者のなかにつねに呼び覚ますということに違いない。この本を読んだ生徒は、自分がしていることに考えを集中させるように――つまり絶えず考えて絶えず音に耳を澄ませるように――促されることだろう」

「教育の本質は単に間違いを指摘することではない。教師はその間違いの原因と、その直し方を明らかにしなければいけない。この本のなかでルバートの原理に割かれているセクションでは、有名な楽曲から多くの例をとって解説している。経験の浅い人によって、このルバートの原理がどれほど頻繁に誤解されているかを、マッセイは示している。経験の浅い人は、ルバートは拍を壊すことだと考えているようだが、本当のルバートは拍子をゆがめることであり、壊すことではない。ある音符に余分な拍を与えるのなら、辻褄を合わせるために他の音符から拍を取って来なくてはいけない。

ペダリングについては、数多くの実例によってうまく解説されている。マッセイはダンパーペダルの間違った使用を嘆く。良いフレージングや効果のために指がどれほど注意深く努力しても、ダンパーペダルの使い方を間違っていれば全て無駄になってしまうこともある。この間違いを調べてみると、ピアノから出てくる音への注意不足が原因だというケースがほとんどである。

この本では、どのページにも引用可能な段落がある。どれも誠実かつ真剣にそして独創的な表現で書かれ、読者の記憶に残るものだ。生徒の上達を心から願って真剣に仕事をしている教師なら、誰もがこの本を熟読すべきである。