20 アーサー・ホックマン

アーサー・ホックマン(生没年不詳)は、ロシア出身のピアニスト。ベルリンでシャルヴェンカやダルベールなどに学ぶ。欧米の各地で演奏活動をしている。ピアニストとしてガブリロヴィッチの演奏を最大限に評価している。「欧州の優れた音楽批評家の評を読む限りパデレフスキ級のピアニスト。唯一違いがあるとしたらホックマンがパデレフスキのような栄光への途上にあるという点だけだ」とアメリカ公演を待望する記事のほか、「若手だが多くの一流アーティストを完全に凌いでいる」「このクラスのピアニストでこんなに控えめな前宣伝もめずらしい」などといった記事がみつかる。

アクションとエモーションによって音に色をつける

「ピアニストは画家のように、パレットに無数の色を持っていなくてはいけません」

「パレット 無料素材」の画像検索結果

ピアノ演奏についての最近の会話で、ロシア人ピアニストであるアーサー・ホックマンは言った。

「画家がカンバスに絵を描くのと同様に、ピアニストは鍵盤に向かって絵を描かなくてはいけません。ピアノでは音に対して、驚くほど多様な陰影をつけることができます。キーは本当のピアニストに対して最も理想的に反応してくれるのです。本当のピアニストとは、ピアノから美しい音のすべてを呼び覚まして引き出すことができる人のことです」

「現代のピアニストはしばしば、重要な二つのものを欠いています。フレージング、そして音の陰影です。この二つ重要性を把握できないと、芸術的にうまくいかないでしょう。アーティストは自分が演奏している作品を徹底的に自分のものにすべきです。作品の精神に深く染まるべきです。その曲の意味を最もよく表すフレージングや音の強弱を知っている、と言えるくらいにです。そこまでの高みを極めたあかつきには、たとえ譜面にどのような記号が付いていようとも、フレージングにかんしては自分自身が法則となります」

ダルベール

「概してピアノ譜の校訂は不十分極まりないものです。実際、不十分以外でありえるでしょうか。楽曲をどう解釈するのが正しいのかは、点や線、ダッシュやアクセントの連なりを見ていてもわかりません。わかることはあり得ないのです。ピアノからフォルテまでのあいだの陰影は無限であり、どの楽派も提示したことのないタッチなどいくらでもあります。フォン・ビューロー、ブゾーニ、ダルベールら優れた校訂者が精力的な仕事をしてくれたおかげで、学習者にとって古典的な楽曲が明瞭になったのは確かです。しかしグラデーション、タッチ、音色には何百万もの多様性があって、そもそも決して記号や言葉で表せるものではないことは、その校訂者たち自身も先刻承知なのです」

ピアニストに必要な四つのこと

「ピアニストが芸術的に成功するために必要なことは四つあります。音色の多様性。個性的かつ芸術的なフレージング。真の感受性。個人としての魅力。この四つです。私にとって色は非常に大きな意味を持ちます。色のなかにはとても美しいものがあります。たとえばさまざまな色合いの赤。金色のような黄色。豊かで暖かい茶色。柔らかくて流れるような青。画家たちと同じように、私たちはこれらの色を用いて素晴らしい組み合わせを生みだすことができます。私にとって暗い赤は繊細で内省的、神秘的な何かを物語るものです」

ここでホックマン氏は感情あふれる表情豊かなフレーズをピアノで弾き、自分の言葉を実演で説明してくれた。

「一方、黄色は陽気さと明るさを表しています」

ここでのピアノでの実例は、心地よくて華やかなスタッカート。生命と炎にあふれていた。他の色についても同じように効果的に実演してくれた。アーティストは続けた。

ガブリロヴィッチ

「いまの実例で、音の色づけによって何ができるか多少はおわかりかと思います。私はこの側面を軽視あるいは無視しているピアニストが、その分だけ美を損なっていると感じるのですが、なぜ私がそう感じるのかもこれでいくらか分かっていただけるでしょう。その気になれば一人のピアニストを挙げることもできます。音楽界で有名な人で、欠点のない完璧な技術を誇るピアニストですが、私にとって彼の演奏はドライで色がない。何の観念も伝わってこない。何ら得るものがないのです。水が流れているだけのようです。この人とは違い、音の美をさまざまに使い分けて多くの観念を――音の絵画を――見せてくれるピアニストもいます。その名はガブリロヴィッチ(*)。彼こそ私にとって最も偉大なピアニストです」

(*)ガブリロヴィッチについては別章。

クライマックスをピアニシモにする

「たいていのピアニストはフレーズに色をつける時、小さい音から徐々に上げていき、クライマックスで最大の音を出します。私はそのようには弾きません。クライマックスをソフトな音にするのです。これは詩的な演奏にも当てはまります。つまりこうです。ここに二小節のフレーズがあります。魂のこもったメロディが含まれているものです。このようにクレッシェンドで弾いていき、最大の音が来ることを聴き手が予想している最高点で柔らかい音を出す。鋭利な感じはもうそこにはありません。聴き手はこの展開を予期しなかったでしょう。こうしていつも、いままで存在しなかった音色の驚きを――音のサプライズを――織り交ぜておくのです」

驚いている人のイラスト(棒人間)

「一般にピアニストは、多くのリサイタルを聴きに行くのがよいと考えられています。他のピアニストの演奏が生み出している効果を学ぶべきだと言うわけですね。しかし私は、名歌手から学ぶことのほうが多いです。人間の声はあらゆる楽器のなかで、最も素晴らしいものです。音を生み出したりそれに色をつけたりするということに関しては、感情豊かな大歌手ほど説得力のあるレッスンを授けてくれる人はいません。ピアニストはオペラをたくさん聴くとよい。そうすれば色、効果、光と影、アクションとエモーションについて、多くを学ぶことができるでしょう」

型通りの演奏を誰も求めていない

「先に述べましたが、ピアニストの三番目の要件は真の感受性です。私はドライで機械的な演奏にはまったく共感できません。そのような演奏では、すべての効果が事前に冷たく計算されています。そういうピアニストはいつも同じ演奏になるよう努めるわけですが、同じ感情を伴っていない場合に同じ演奏などできるはずがありません。その人が単に演奏の同一性を追求しているとすれば、演奏にインスピレーションが入り込む余地はどこにもありません」

歯車・ギアのイラスト

「本当のアーティストは決して機械的な演奏をしません。ある時は感傷的な気分でしょうし、また別の時には大胆で昂ぶった気分でしょう。彼は自分が感じるまま自由に演奏するに違いありません。と同時に、アーティストとして芸術の枠をはみ出ることは決してないのです。本当の感情や『心』で演奏するピアニストであれば、同じ曲を二度まったく同じように弾くことはありえません。まったく同じ感情を二度持つことはありえないからです。もちろんこれは公開演奏や人前での演奏の場合に、より一層当てはまることです」

「もうひとつ大事なことがあって、それは呼吸の制御です。どれほど体の力を使っているとしても、呼吸は楽で自然にできていないといけない。フォルテシモで弾く時でも、難しいパッセージを弾く場合でも、つねに唇は閉じていて下さい。呼吸は鼻で行うべきものですが、演奏中もそのようにするのです」

細部の検討

「ええ、私は教育活動もたくさん行っています。ですが、利発な上級レベルの生徒だけを教えたいと思っています。指導の上で、私は生徒の手の姿勢とタッチにこだわっています。指先は固定させる必要がありますが、手と手首、肩から腕はどこもリラックスさせます。作曲を教える場合、一つ一つの音にこだわって大切に扱っています。あらゆることを検討・分析にかけるのです。生徒がすべてを理解して習得した時、舞台装置・役者・照明・色の準備が整ったということになります」

「ピアニストになろうという志は、最初から持っていました。生まれはロシアですが、後にベルリンに来て、七年か八年、クサヴァー・シャルヴェンカ(*)に学び、それからダルベール(*)、シュターフェンハーゲンなどに師事しました。しかし教師たちから学べる限りのことを学び尽くした後は、自分自身が最大の教師となるのです。私はヨーロッパでコンサートやリサイタルをたくさん行ってきましたし、アメリカの大都市でも、一流のオーケストラと共演してきました」

File:Scharwenka2.jpg

シャルヴェンカ

(*)フランツ・クサヴァー・シャルヴェンカ(一八五〇―一九二四)は、ポーランド系ドイツ人の作曲家・ピアニスト・教師。一八八一年にシャルヴェンカ音楽院を創設。
(*)オイゲン・ダルベール(一八六四―一九三二)は、ドイツで活躍したイギリス出身のピアニスト・作曲家。リストの弟子。本書のテレサ・カレーニョと結婚していた時期がある。同じく本書のバックハウスは弟子。

ホックマン氏は作曲でもかなりの業績があり、出版された曲は数多い。後にはおそらく、より大きな作品が期待できるだろう。