14 ラウール・プーニョ

ラウール・プーニョ(一八五二―一九一四)はフランスのピアニスト・オルガニスト・教師・作曲家。パリ音楽院でジョルジュ・マティアス(ショパンの高弟)らに学ぶ。ピアノ、オルガン、和声法、ソルフェージュなどで高い楽才を示し、卒業後、オペラ座音楽監督、オルガニスト、合唱指揮者、和声法やピアノの教授など様々に活躍。四十代頃から演奏活動を再開し、ヨーロッパ各地で演奏した。ヴァイオリニストのウジェーヌ・イザイともアメリカで共演している。晩年には、のちに名教師となるナディア・ブーランジェと音楽上の協力関係を築いた。

ラウール・プーニョを訪ねて

「本日、ラウール・プーニョ氏と面会していただけることになりました。四時にパリのスタジオでお待ちいたしております」

『ミュージカル・アメリカ』のパリ代表から、このような丁重な手紙を受け取った。誰であれフランスの有名音楽家と面会の約束を取り付けるのは、非常に難しいことだった。他に約束をしていたり、パリには不在だったりしたためである。このため私は、フランスの大ピアニストの少なくとも一人と会うことができるのを嬉しく思った。

その日の午後、約束の時間。私たちは車でクリシー(*)の混雑した道路を走り、指定の住所に着いた。見るとそこは、さえないフランス式アパートメントの一つだった。一般にこういう建物の正面は、雨戸が連なっているものの、特徴のない壁そのものであり、通行人を寄せ付けない雰囲気がある。建物の背後に何が隠されているかを匂わすようものは何もない。今回、建物の前に訪問相手はいなかった。私たちは四角くて広い庭の向こうまで行くように案内された。旧式の住居を建てるときの通例どおり、家はこの庭の周りに建っていた。

(*)クリシーはパリ北西の郊外(パリ十七区に隣接)。原文ではClicyだがClichyの誤りとみられる。

私たちはやっと正しい扉を見つけた。身だしなみの良い家政婦が扉を開いた。訊いてみると彼女はこう言った。

「プーニョ氏はここにはおりません。彼は田舎にいます」

「house keeper free」の画像検索結果

どうしてこうもフランスの音楽家はつかまらないのか。みんな「田舎に」いるらしい!

「奥さん、私たちはプーニョ氏と約束があるんです。お手数をおかけしますが、本当にご不在なのか確かめていただけませんか」

私たちは立ったまま待たされたが、家政婦はすぐに戻ってきて、プーニョ氏はたった今スタジオに入ったばかりだと言い、そこまで連れて行ってくれた。

ロビーのようなところを進んでいくと、すぐにアーティストの聖域にたどり着いた。私は部屋をひと目見て、東洋の君主が暮らすオリエント風の一室にいるように感じた。金銀の糸でできた重いトルコ風の刺繍品が、扉や窓を覆うように吊るされている。壁には希少価値のある絵画が数多く掛けられている。高価な芸術作品が部屋のあちこちに置かれている。開いた扉の向こうは素晴らしい庭だ。花が咲き誇り、噴水の水が大理石の水槽に注ぎ落ちていた。

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ナディア・ブーランジェ

部屋の片側にあるせり上がった壇にはソファーが置かれ、その上にはオリエント風のカーテンが掛かっていた。私たちが会いに来た大ピアニストは、玉座に座るかのようにこのソファーに陣取っていた。その白くて長い顎髭と威厳のある身のこなしも手伝い、彼がそこに座る姿は堂々たるものだった。そのそばには若くて可愛らしい女性が座っていた。すぐ後にわかったことだが、この人はナディア・ブーランジェ嬢(*)だった。華々しい成功を収めた作曲家にして演奏家である。

(*)ナディア・ブーランジェ(一八八七―一九七九)は、フランスのピアニスト・作曲家・教師。優れた作曲家・演奏家を幅広いジャンルで数多く育てたことで知られる。晩年のプーニョと知り合い、その死までおよそ十年間、作曲や演奏活動などで協力関係を続けた。

「あなたと英語でお話できないのは残念です。母国語しか話せないものでして」

プーニョ氏はそう切り出すと、手を振る仕草で丁重に私たちに着席を促した。

「ピアノ演奏、いやむしろピアノ教育についての私の考えを知りたいというわけですね? ピアノへの適性が認められるような子の場合、ごく幼少期から始めてもよいでしょう。実際早く始めれば始めるほどよいのです。そうすればその子は、音楽のことがちょっとわかるほどに物心がつく頃までには、単調な練習のうちどれだけかは終えているでしょうから」

子供を訓練すること

「いくらか音楽の才能がある子に関しては、練習しすぎにならないようによく気をつけなくてはいけません。結局、丈夫な体が一番大事です。それなしにほとんどなにもできません」

「健康な子どもなら五歳から六歳頃にピアノを始めてもよいでしょう。最初から賢明な方法で訓練しなければいけません。音楽では一番重要なのは耳なので、いろんなサウンドを聴かせて音を識別させたり、できるなら音階で歌わせるなどして、音の勉強には大きな注意を払うべきです」

クラーマー

「最初に、正しい指の動作とともに、きちんとした手の姿勢を習得しなくてはいけません。それから曲を始める前に、音階・アルペジオ・和音ほか、いろんな指のエクササイズによる訓練を徹底的に行わなければならない。年少の生徒は、ピアノ学び始めて最初の数年のうちに、今述べた技術的な訓練とならんで、さまざまなエチュードを弾くのが望ましいです。たとえばチェルニー、クラーマー、クレメンティ。バッハのエチュードは言うまでもありません。音楽院教授の一員という立場上、私は非常に多くの生徒を見てきました。私が個人的に生徒を受け入れる場合は、才能があってレベルが高い生徒をとるのは必然的なことです。自分の時間を子どもたちに捧げることはできないからです。それでも子どもの思考が発達していくのを見るのは興味深いものです」

ドゥカン

美しい庭付きの魅力的なスタジオのことが話題にあがった。このあたりはパリでも屈指の賑わいがある地区だったが、その喧騒にもかかわらず、スタジオには完全な静けさが保たれていた。スタジオ自体はかつて画家のドゥカン(*)が所有していたと教えられた。絵画や家具のいくつかは、以前ドゥカンのものだったそうだ。ピアノの上方の壁全体を使って掛けられている、プーニョの等身大の肖像画が目を引いた。私たちがその絵画を称賛するとプーニョはおもむろに立ち上がり、この絵を撮影した写真――彼が持っていた最後の一葉――を見つけ出して、添え書き付きで私たちに贈ってくれた。

(*)アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン(一八〇三―一八六〇)は、フランスの画家。東方主題を好んで取り上げた。当時ドラクロワらと並び称された。

私たちはブーランジェ嬢の作品について話した。プーニョ氏が強い関心を示しそうなテーマだった。

「ええ、彼女はオペラを書いています。実は私と一緒に書いているんです。台本はダンヌンツィオ(*)の物語からです。タイトルを書いて差し上げます」

ダンヌンツィオ

彼はそう言うと、私が持っていた用紙に、

「オペラ≪死都≫(*)(全四幕)、音楽:ナディア・ブーランジェ、ラウール・プーニョ」

と書いた。

「完成したらきっとアメリカでも上演してくださいね。みんなにもそう言っておきますから」

私がそう言うと、大ピアニストは穏やかに微笑み、満足そうにその提案を受け止めてこう言った。

「そうしますよ。完成したら二人でアメリカまで見に行こうかな」

私たちは心から感謝しながらこのオリエント風のスタジオを――そしてその著名な住人のもとを――去った。それから再びクリシーの道路の喧騒のなかに入ると、私たちはこう言い合った。パリ滞在のなかでも最もユニークな経験のひとつを乗り切ったね、と。

(*)ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(一八六三―一九三八)は、イタリアの作家・政治家。その国家主義的な政治観・政治活動はムッソリーニや三島由紀夫に影響を与えている。戯曲『死都』は一八九八年の作品。
(*)この共作のオペラ≪死都≫は未完成に終わる。

ジャーメイン・シュニッツァー

以上がこの偉大なフランス人アーティストの最後のインタビューである。彼はこの数ヶ月後にこの世を去った。以下に記すプーニョ氏の教え方や個人的特徴は、フランスの優れたピアニストでありプーニョ氏の一番弟子だったジャーメイン・シュニッツァー夫人(*)から教えられたものである。

(*)ジャーメイン・シュニッツァーについては別章。

「プーニョは幼少の頃からピアノを弾いていて、少年の頃にはいくつピアノの賞を取っています。しかし後にオルガンにより多くの時間をかけるようになり、その分ピアノは怠っていたようです」

「彼が真剣にピアノに目を向けるようになったのはこうです。その頃、ノルウェーの有名人、エドヴァルド・グリーグがパリにやって来るという発表があった。ある日プーニョは、出版されたばかりのグリーグのピアノ協奏曲を調べていた。プーニョは友人から、『グリーグがパリに来ている時に、作曲家本人を前にしてその曲を演奏するのはどうだい?』と言われるが、『わたしはピアニストじゃないから』と言って反対する。友人は『何を言っている。君はピアノのことを十分知っているじゃないか。まだ四週間もある。この作品に取り組めるだろう?』と言う」

「プーニョは友人からこのような助言を受け、この作品を仕上げて、グリーグが開いたコンサートで弾いて成功を収めた。ときに彼は三十九歳。プーニョにとってそれがスタートだったのです。それ以来、演奏の仕事が入るようになり、次々に成功した。彼はこうして、フランス最高峰のピアニストとして花開いたのです」

「プーニョは生まれながらのピアニストで、技術に対する天賦の才能を持っていました。そのため彼は、わざわざ生徒に技術的なエクササイズを教えたり、それを自分で練習したりすることはあまりなかった。生徒の演奏に技術的な欠点があった場合、彼は言葉も発しないし説明もしない。ただ楽譜を閉じて、それ以上聴くのを拒絶するのみです。もちろん生徒は挫けて身を引くことになります。彼は生徒と一緒に演奏したり(ふつうは左手で弾いていました)、メロディや主題を歌ったりすることが好きでした。こうして生徒に曲の意味や解釈についての観念を与えるわけです。生徒は大いに楽しむなか、自分の足で立てるようになっていきます」

「プーニョは上級の生徒に、音楽について数多く語りました。音楽が何を表現できるのかをたくさん話したのです。彼は主題やパッセージを、それらのもととなった感情へと読み替えました。感情が音としてどう表現されているかを教えてくれたのです。かつて彼は『何よりも優しさと善意に従いなさい』と書きました。『優しさに満ちた人の音色は美しい』と」

「プーニョの教育は技術的な面の訓練というよりむしろ、ある作品がどういう意味のものなのか、その意味を演奏としてあらわすにはどのようにしたらいいのかを語る形を取っていました。技術にかがずらわることは非常に少なかったですね。このような巨匠の下では、才能のある生徒だけが伸びるのは言うまでもありません。実際に彼は、才能の無い生徒にまったく関心を寄せなかった。プーニョという人は、行間を読めるだけの洞察力のある生徒や、彼の芸術への熱意を理解して吸収することができるような生徒にとっては素晴らしい教師でした」

「私は今、プーニョが技術的な面を教えることについて関心がないと言いました。一番弟子の私にさえ、彼はめったに技術的なことを言わなかった。しかし一つ例外があって、これは注目すべき内容ですのでお話します。私は彼から技術上の原理をひとつ教えてもらいました。シンプルなエクササイズで表される原理です。他の人からは一度も聞いたことがない内容です。厄介なパッセージを克服するのに、驚くほど助けになっています。誰にも教えたことがないのですが、書いてご覧に入れましょう」

次の譜は短いエクササイズのプランで、シュニッツァー夫人がスケッチした通りのものである。

エクササイズ

「プーニョは三十二分音符と六十四分音符を極限まで速く弾くことを求めました。この考えはすべての音階に応用できるだけでなく、一作品中のあらゆる難しいパッセージにも使えます」

「プーニョは私の練習・成長・キャリアに強い関心を抱いていました。彼からもらった手紙を数多くとってありますが、彼の実際の人となりがわかるような文があちこちに散りばめられています」

「『私は楽譜のなかに表現されている思想を、若い君に明らかにしようと骨折ってきました。理解力や感情も育んでいってほしいと思ってのことです。君は私に感謝し、私は君に愛情をもつ――そんな関係が生まれたのはこのためです。私は君のために窓を開け、光を与えてきました。種は育ち、私は満足という名の収穫を得たのです』」

「『聴ける音楽はすべて聴きなさい。優れたピアニストであれ下手なピアニストであれ、どちらも聴き逃さないようにすることです。学べることは必ずあります。拙い演奏家からでも学べることはある。やってはいけないことを学ぶだけだとしても! 偉大な作品を学びなさい。しかしそれを重視しすぎてもいけないから言いますが、偉大な作品であっても、目立たせるに及ばない音型やフレーズが含まれています』」

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ハンス・リヒター

「(ハンス・リヒター(*)のオーケストラと共演した後に)『本当にうっとりするようなサウンドで、気持ちが高揚する素晴らしい共演でした。我々のなかにあった力は演奏者それぞれの気持ちを揺さぶり、それぞれの体を貫いて脈打ち、それぞれの感情や本能を白日の下にさらしたのでした。音楽はオーケストラと呼ばれるこの媒体を通して表現を見出す芸術ですが、これと比較できる芸術が他にあるでしょうか」

「オーケストラのなかにいると、私は自分が大きくなるのを感じます。そのときの私には、対話の相手として巨人がいるからです。私は彼と歩調を合わせる。彼を自分の行きたい方向へと導く。彼を落ち着かせる。抱きしめる。私たちはお互いを補い合う。自分が力を握っているときには、主人として彼を従属させる。ピアノだけでは私には小さすぎる。私はオーケストラとの共演以外でピアノを弾くことに魅力を感じません』」

(*)ハンス・リヒター(一八四三―一九一六)は、ハンガリー出身の指揮者。第一回バイロイト音楽祭で『ニーベルングの指環』全曲を初演するなど、主にワーグナーの指揮者として知られる。