17 フェルッチョ・ブゾーニ

フェルッチョ・ブゾーニ(一八六六―一九二四)は、イタリアのピアニスト・作曲家・教師。両親とも音楽家。ウィーン音楽院に学ぶ。少年期から作曲・ピアノ演奏の両面で楽才を示し、第一回アントン・ルビンシテイン・コンペティションでは作曲(≪演奏会用小品≫(作品三一a))で一位、ピアノで二位という結果を残している。ドイツを中心に欧米で教育者としても演奏家としても活躍した。バッハを始め数多くのピアノ楽曲の校訂や編曲をしている。編曲では≪シャコンヌ≫が有名。音楽に関する試論も多く、影響を与えている。電子音楽にも興味を示した。

アーティストの自宅で

人の性格はしばしばその人の環境に現れ出るものなので、独創的な音楽家や一流音楽家の環境に接するのは常に興味深い経験である。フットライトの光から離れた自宅というプライベート空間で会えば、そのアーティストの人となりについて、普通の場合よりはるかに詳しく知ることができる。そんな機会を作ってもらうのはなかなか難しいことを知っているので、私がそのような特別な機会に恵まれてきたことについては、その分感謝が大きい。なにせ俗塵を避けているようなアーティストたちともお会いできるのだ。

私はブゾーニに近づくのは極めて難しいと聞かされていた。会える可能性があるとしたら、約束なしで突然押しかけるくらいしかなかった。もしかしたら彼は在宅かもしれないし、私に会ってもいいと言ってくれるかもしれない。とはいえこんなふうに彼を驚かせるのは本意ではなかったので、私は面会の申し込みに対して返事が来るのをじっと待っていた。すると次のようなメッセージをもらった。「私はインタビューが好きではないのですが、木曜の午後、お茶のときにお越しでしたら歓迎します」と。

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ブゾーニは、ベルリンの比較的新しい西地区、美しいヴィクトリア・ルイーゼ広場を望む立派な邸宅に住んでいた。私たちが到着するとブゾーニ夫人が迎えてくれ、巨匠のところに連れて行ってくれた。彼は図書室の快適な一隅から身を起こして挨拶に来てくれた。まもなくお茶が運ばれてきて、ブゾーニ、私たち、他の客二人で、フランス語・ドイツ語・英語をごちゃ混ぜにして、すぐに楽しく話し始めた。

賑やかな会話が続いている間、私は自分たちが居る大きな図書室をときどき眺め回さずにいられなかった。芸術的な家具が目を引いたし、高級な装丁の書物が何列にも並んだ壁に目を見張らされたためである。ジョンソン博士(*)は「書物で埋まった棚を見ると、題が読めるほど棚に近づきたくなる。書物の選択に所有者の性格が現れるからだ」と述べたが、これは誰にもよくわかる話だろう。

(*)サミュエル・ジョンソン(一七〇九―一七八四)は、イギリスの文学者。『英語辞典』の編集などで知られる。しばしば「ジョンソン博士」と称される。

やがてブゾーニは私のほうに向いて、

「今、アメリカ・インディアンをテーマにした狂詩曲を書いているところです」

と言った。

「そのテーマはどこから見つけたんですか」

そう尋ねると、ブゾーニは答えた。

「とても素敵な女性からです。ナタリー・カーティス嬢(*)といって、あなた方と同じアメリカの女性ですよ。私のアイデアに強い興味を持ってくれて、いろいろと助けてくれています」

ナタリー・カーティス

(*)ナタリー・カーティス(一八七五―一九二一)は、アメリカの民族音楽学者。アメリカ、ドイツ、フランスでピアノを学んだ(ブゾーニにも師事したことがある)が、ネイティブアメリカンの音楽に感銘を受けて、学者へと転向した。

「ドイツの某音楽新聞に、あなたがベルリンを離れようとしている、どこかからのオファーを受諾した、などと書いてありました。スペインですか?」

「しばらくベルリンを離れようと思っています」

ブゾーニは認めた。

「ボローニャに行くつもりなんです。ひょっとしてボローニャがスペインにあるとでも思っていましたか?」

彼は茶目っ気たっぷりに横目で私を見ていた。その両目はユーモラスにキラキラと光っていた。

「ボローニャからのオファーはうれしいですね。偉大なボローニャ音楽院の院長に任命されたのです。とはいえボローニャに住まなくてもよく、レッスンをする必要もありません(といっても教えに行く時期もあるでしょう)。シーズン中、私は六つの大きな管弦楽コンサートで指揮をすることになっています。しかしそれ以外ではいくらでもボローニャを留守にしていてよいのです。たぶんこの家は閉め切って、秋にイタリアに行くことになります。ボローニャではあまり生活費がかかりません。年二五〇ドルほどで本物の宮殿を借りることもできます」

その後ブゾーニ夫人から他の部屋も案内すると言われたので、私たちは隣の部屋に移った。そこには古くて貴重な版画・絵画がたくさんあり、また趣のある家具も置かれていた。夫人は「古いものばかり」と言って微笑んでいたが、実際その通りだった。この部屋には鍵盤二つ付きのハープシコードが置かれていた。筐体は鮮やかな赤だった。それはアンティーク品ではなく、チッカリング(*)によって作られた優れた複製だった。

(*)チッカリングは、一八二三年に創業し一九〇九年までアメリカに存在したピアノメーカー。鉄フレームでピアノの強度を増し音量を増大させた貢献がある。

さらに行くとそこはまぎれもない音楽家の一室だった。アップライトピアノが置かれていて、写真と記念品がぎっしり並ぶ大きな机がある。壁にはショパンやリストをはじめとする希少な肖像画が掛かっている。この部屋の向こうにはサロンがあり、グランドピアノが二台並べて置かれていた。巨匠が生徒を指導したり、リサイタルしたりする部屋だった。この部屋には豪華な彫刻が施された大ぶりの家具がいろいろあった。

ブゾーニ夫人は私たちの目を、手の込んだ古びた銀のシャンデリアに向けさせた。職人の究極の技が込められているもので、彼女によれば見つけるのにすごく時間がかかったそうだ。この部屋にはこの作曲家・ピアニストの若かりし日の肖像がいくつもあった。そのうち一つは十二歳の頃のものである。髪にはカールがかかり、目には魂が宿っている。大きな白襟の、絵のように美しいハンサムな若者だった。

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ブゾーニはすぐに、サロンにいる私たちに加わった。今度の話題は、新たな地での活動のことだった。

「新しい狂詩曲ができたら、アメリカに来てみんなのために弾いてもらえますか? ロンドンでもそうして欲しいと思います」

彼はこの求めにこう答えた。

「ああ、ロンドン! 私はほとんどロンドンにホームシックになっているんです。美しい都市です。アメリカも好きですよ。何年か住んでいたことをご存知でしょう。息子はアメリカで生まれて、アメリカ市民です。ええ、いつになるかはまだ分かりませんが、私はアメリカに戻りますよ。その時は必ずこの狂詩曲を演奏します」