29 ハンス・フォン・ビューロー

ハンス・フォン・ビューロー(一八三〇―一八九四)は、ドイツのピアニスト・指揮者。ピアノをフリードリヒ・ヴィーク(クララ・シューマンの父)に学ぶ。両親の希望で大学では法律を学んでいたが、リストの指揮によるワーグナー≪ローエングリン≫初演の鑑賞を重大な契機として音楽で生きることを決意。ワイマールでリストに三年間師事したのちピアニストとしてデビューした。一方で指揮者としても活躍。主にリスト、ワーグナー、シューマンなど同時代人の作品を取り上げ、作曲家としての彼らの成功に大きな役割を果たした。ミュンヘン宮廷管弦楽団とはワーグナーの楽劇二作を初演している。ほかマイニンゲン宮廷楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団も指揮した。音楽批評家でもあり、辛辣な言葉で不必要に敵を作ることもあった。私生活ではリストの娘コジマと結婚した(ただしやがてコジマはワーグナーのもとに走り、ワーグナーとの関係は複雑化した)。なおピアノでも指揮でも楽譜に一切頼らない強記の人として知られる。

ハンス・フォン・ビューローは一八七六年のアメリカツアーで、知性的かつ説得力のある演奏を聴衆に届けた。

ルビンシテインはその四年前の一八七二年にアメリカに来て、大成功を収めていた。その怒涛のピアニズム。力強いクレッシェンド。囁くようなディミヌエンド。驚くほど多彩な音。そのどれもが新たな世界を開くものだった。あらゆるものが彼の魅力に引き寄せられた。アメリカの聴衆はルビンシテインにひれ伏したのだった。

ビューローは、ルビンシテインとはかなり異なった能力を持つ演奏家だった。明瞭なタッチで、極めて細かいところまで抜かりなく正確に弾く。そんな彼を批評家は「冷たい」と評した。ビューローはものごとを深く考える分析肌の人だった。聴衆は彼の演奏を聴くと、楽譜内の音符・フレーズ・強弱記号が鏡に映し出されたように感じるのだった。

ルビンシテインのリサイタルを聴き終えた聴衆は、圧倒された感覚・畏敬の念・霊感を受けた感じ・興奮した気分とともに家路についたが、帰宅後ピアノを開ける気にならなかった。あの驚くべき両手が鍵盤を燃えあがらせた後には、意気をくじかれて鍵盤に触れる気がしなかったのだ。

アントン・ルビンシテイン

一方、ビューローを聴いた後に湧き起こるのは、急いでピアノに向かいたいという衝動だった。彼の演奏は明晰・論理的・シンプルで、自分でもできる気がするから一刻も早く試してみたい、という衝動だ。ピアノをビューローのように(!)弾くのはそれほど難しいことには見えなかった。ビューローはこう言っているかのようだった。「私はピアノの練習に多くの時間を費やしてきた。同じくらいの時間をかけて練習すれば、私ぐらいの演奏は誰にでもできるようになる。よく聴いておきなさい。教えてやろう!」と。

ビューローはベートーベンの作品を深く研究していた。ビューローによるベートーベンソナタの校訂版は、研究の深さ、明瞭性、極細部に及ぶ精密さで有名である。彼はアメリカリサイタルを通じて、ベートーベンソナタがより正しく理解されるようにと大いに努めた。彼はショパンも蔑ろにしなかった。ビューローのショパン解釈には、タッチや音の感覚的な美しさが欠けていたかもしれないが、いつも穏当かつ健康で、美しかった。

ベートーヴェン

一八八〇年代の或るシーズンの終わり頃(*)、「ビューローがベルリンに来て、クリントヴォルト音楽学校のアーティストクラスを教える」という告知があった。これは有名な音楽家・教師からレッスンを受けるまたとないチャンスで、約二十人のピアニストがこのクラスに入った。そのうち数人は、当時ビューローが住んでいたフランクフルトからビューローと一緒に来た。

(*)このレッスンがあったのは一八八五年。ビューローがマイニンゲン宮廷楽団を指揮していた最後の年にあたる。

カール・クリントヴォルト――ピアニスト・教師・批評家・ショパンやベートーベンの校訂者――は、当時この学校の校長だった。ビューローとクリントヴォルトは親しい間柄だった。ビューローは自分自身がベートーベンソナタを数多く校訂していたにもかかわらず、クリントヴォルト版ベートーベンを推薦するのを厭わなかった。これは二人の親しさを物語る事実である。

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クリントヴォルト

親しかった証拠はまだあって、それはビューローがフランクフルトでの仕事をそのままにしてまで、ベルリンに来ることを辞さなかったことである。ビューローは自分の名声でクリントヴォルト音楽学校の名を高めようとしたのだ。ベルリンは音楽にあふれた都市であり、音楽学校も数多くあった。そのなかでクリントヴォルト音楽学校は一番新しく設立された学校だった。

学長がビューローを連れて音楽室に入ってきて、クラスの皆に紹介してくれたのは五月のある朝のことだった。平均より背が低いというのが皆の印象だった。知性を感じる大きな頭をしていた。とても広い額の下には、突き刺すような黒い目が眼鏡越しに輝いていた。

ビューローは生徒にお辞儀して、これほど多くの熱心な生徒に会うことができて嬉しいと言った。教室を見渡す時の彼の動きは敏捷で油断がなかった。彼はひとときにすべてを見ているようだった。この活動的なメンタリティから逃れることができるものは何ひとつない――生徒はそう悟った。

クラスは週四日集い、レッスンは朝九時から一時頃までたっぷり続いた。ビューローは、教えるのはブラームス、ラフ、メンデルスゾーン、リストだけだと告げた。それ以外は何も準備してくる必要はなかった。実際のところブラームスは特別扱いだった。

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ブラームス

私たちは興味深い数々の作品を議論し合い、演奏し合った。偉大なこの教師と過ごした時間のなかでおそらく最も有益だったのは、技術・解釈・音楽一般・音楽家一般についての、炎が駆けるような論評や示唆だった。ビューローはドイツ語と英語を織り交ぜながら、いそいそと神経質そうに話した。ドイツ語で話したことを英語でしばしば繰り返していたが、これはアメリカ人やイギリス人がいることを考慮してのことだった。

ビューローの教育は、彼自身の演奏と同じ特質を生徒に要求するものだった。明瞭なタッチ、および正確なフレージングとフィンガリングが最初の要求だった。作曲家の考えの伝達は、彼が指示した通りのものである必要があった。楽譜に対してはいかなる自由も許されなかった。彼は優れた音楽を生みだす作曲家に対して、とても誠実かつ真面目だった。何であれ楽譜に書かれていることを変えるということは、彼にとっては罪だった(ただし作曲家の意図を明らかにするようなものなら、フレーズや表現の記号を追加するのがよいと彼は考えていた)。

言動のすべてから、彼がこのテーマについて知的に把握していることが読み取れた。生徒に対しても、自分と同種のなにがしかの知性を見出そうとしていた。教えようとしている内容をすぐに理解してもらえず、生徒のなかに知性を見出し損ねると、繊細で感じやすい小柄な博士はイライラした。短気で皮肉っぽくなり、そそっかしく部屋を歩き始めるのだった。こうなると彼は、生徒の演奏のなかにあるはずの価値がほとんど見えなくなった。小さな問題点が彼のなかで肥大化し、素晴らしいものをすべて矮小化させてしまうからだ。このライオンが唸り始めたら、生徒は下手なことをせずにじっと我慢しておくのが正解だった。

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教室の雰囲気が良い時は、我慢できる程度には滑らかに授業が進んだ。彼は技術についてあまりうるさく言わなかった。これはもちろん、彼のところに来る生徒が、技術的には十分なものを持っていることが期待されていたからだ。彼の主たる関心は、作品の内容や解釈を明らかにすることだった。彼はレッスン中、曲のなかのフレーズやパッセージを生徒に弾いて聴かせたり、生徒と一緒に弾いたりしたが、自分で一曲を通して弾くことは一度もなかった。

この風変わりな人物は、覚えている曲の多さでも非常に目を引いた。話に出てきそうなピアノ曲はほとんどすべて知っていて、楽譜を見ずに演奏することができた。彼はしばしば「ピアニストは少なくとも二百曲をそらで弾けなければアーティストとは言えない」という意見を口にしていた。もちろん彼はこの条件を満たして余りあった。

ビューローはピアニストとしてだけでなく指揮者としてもこの条件を満たしていて、有名なマイニンゲン宮廷楽団(*)の指揮者として、与えられたいかなる作品も総譜を見ずに指揮した(当時このことはすぐれた芸当だと考えられていた)。彼は絶えず仕事をしていた。ビューローが音楽界で名声を高めたのは天才だったからでもあるが、それ以上にたゆまぬ努力をしたからである。

(*)一六九〇年に創設された歴史あるオーケストラ。バッハの次男も指揮者を務めていた時代がある。第一回バイロイト音楽祭でも演奏。ビューローの時代に最盛期を迎えた。ブラームスもたびたび客演指揮者として登場し、自身の交響曲第四番も同楽団と初演している。

ベルリンではビューローから、演奏上のヒントを数多くもらった。その一部を以下に記しておこう。

「まずは正確に演奏することが重要なのであって、美しく演奏するのは二の次だ。大事なのは健康なタッチ。偏頭痛のような指で弾いたり、リウマチのような手首で弾いたりする人もいるからな。指の側面で弾いたり、斜めからのストロークで弾いたりしてはいけない。それだとタッチが弱くて不確かなものになる」

「まずは明瞭に弾けるようにすること。曲をどのようなタッチや音色で弾くかを考えたり、曲の趣旨や表現方法を見定めたりするめに、すべての段・小節・音符を分析する必要がある」

「常に自分が最初の聴き手だ。自分自身に対する批評家であることは、あらゆることのなかで最も難しいことなのだ」

「新しい主題の導入時、それを聴衆にわかりやすく示すこと。新主題・新音型の特色すべてを柔軟に引き出す必要がある」

「華やかさは速さによるものではなく、明瞭さによるものだ。明瞭でないものがきらきらと輝くことはない。華やかなパッセージでは、強く弾ける指を使うこと。可能な場合は四の指(*)を除外することだ。音階を華やかで力強く弾きたいとき、速く弾きすぎてはいけない。どの音も、丸みを帯びた豊かな音でなければならないし、レガートになりすぎてもいけない。むしろメゾレガートにすることだ。そうすると左右の手で同時に単音を弾いたとき、オクターブのように聴こえる。リズム的に非常に難しいのは、二連符と三連符が交互にでてくるパッセージを弾くときだ。二連符と三連符を順番に弾いて音階を練習するのもよいだろう」

(*)ここでは小指のことか。

「なんであれ、見事に聴こえるように演奏しなさい。心地よい演奏、称賛される演奏をするのだ。いっけん耳障りなパッセージも、見事に聴こえるように演奏することができる。当該パッセージのなかから最良のものを巧みに探し出し、それを一番立派に見せてくれそうな光へとかかげるのがその秘訣。不協和音は耳をふさぎたくなる音だが、耳に心地よく感じられるまで不協和音を練習すること。オーケストラの楽器はいろいろな質の音を出しているが、これをピアノで模倣してみることだ。鍵盤上のオクターブ八音の各セットは、どれも固有のカラーを持っている。そう考えたうえで、自分の演奏に陰影・色彩をつけなさい。つまりは多彩な音で弾くことだ」

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フランツ・リスト

ビューローが崇拝していたバッハ、ベートーベン、ブラームスの三人組《トリニティ》に、四人目の神を加えるとしたら、それは間違いなくリストだっただろう。初日のプログラムは、このハンガリー人巨匠の作品が中心だった。たとえば≪泉のほとりで≫(*)≪スケルツォとマーチ≫(*)≪バラード≫(*)などがあった。ビューローは≪スケルツォとマーチ≫を弾いた奏者に対して、軽い柔軟な手首でオクターブを練習するようにとアドバイスし、クラク(*)の『オクターブ教室(Octave School)』(*)の特に第三巻を推奨していた(他の巻は、簡単なものは飛ばして難しそうなものだけを練習するという使い方ができる)。≪バラード≫についてビューローは、第一番のほうが人気があるが第二番のほうが優れていて本格的だと言った(どちらもそれほど世評は高くないが)。

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テオドール・クラク

(*)≪泉のほとりで≫は≪巡礼の年―第一年:スイス≫(S160)の四曲目。
(*)≪スケルツォとマーチ≫(S177)
(*)バラード第一番変ニ長調(S170)、バラード第二番ロ短調(S171)。
(*)テオドール・クラク(一八一八―一八八二)は、ドイツのピアニスト・教師。リストの≪スケルツォとマーチ≫はクラクに献呈されている。ピアニスト養成機関として隆盛を誇った新音楽アカデミー(クラクアカデミー)の創設者。
(*)原書名”Die Schule des Oktavenspiels”。一八四八年出版。

≪巡礼の年≫は大いに注目を集めた。演奏された曲の中には、≪鐘≫≪雪あらし≫≪牧歌≫≪ジュネーブの鐘≫≪英雄≫≪鬼火≫≪マゼッパ≫(*)があった。ホ長調の大ポロネーズもあり、二つのエチュード(*)(≪森のざわめき≫と≪小人の踊り≫)もあった。他にもマズルカ、即興円舞曲、第一のエチュード(*)もあった。このうち最後のものについては彼はこう言った。

「皆さんは全員このエチュードが弾けるね。書かれてから三十年経ったが、この曲の素晴らしさがようやく人々に理解されつつある。リストの作品にはこういうことが多いのだ。リストの曲がどうして音楽的でないと思われてきたのか不思議だ。とはいえリストを下手くそに演奏してみなさい。聴衆は『こんな曲を書くだなんて、リストは本当に音楽的じゃなかったんだな!』と叫ぶしかなくなるぞ」

(*) ≪雪あらし≫≪英雄≫≪鬼火≫≪マゼッパ≫は『超絶技巧練習曲』(S139)に、≪牧歌≫≪ジュネーブの鐘≫は『巡礼の年』に、≪鐘≫は『パガニーニによる超絶技巧練習曲』(S140)にある。
(*)二つの演奏会用練習曲(S145)のこと。
(*)次のビューローの言葉から、≪超絶技巧練習曲≫のことと思われる。

「すべてのことに正確を期することが、最も重要なことだ」

これはビューローお気に入りの言葉だった。

「ピアノには、語らせなければならない。人が喋るときの唇の動かし方は、単語によって違う。これと同様、メロディを弾くときのピアニストの手は、出したい音によって変わってくる。またペダルを注意深く使わずして、ピアノに語らせることはできないぞ」

ビューローはリストの軽めの曲のなかでは、マズルカを非常に楽しいものとして勧めていた。≪森のざわめき≫も魅力的で優れた演奏会用曲だと言っていた。

「最初の音型はいくぶん大きな音で、ややゆっくり気味に始めなさい。それから動作を多くして、音を抑えるんだ。ソフトに弾くべきものはすべて、フォルテで練習するとよいだろう」

ヨアヒム・ラフ(*)の組曲(作品九一)(*)は最重要の位置付けだった。組曲のそれぞれの曲に、極めて細かい注意が払われていた。ジグ(*)を弾いたのはエセルバート・ネヴィン(*)である。≪変容≫(*)やヴァルス・カプリス(作品一一六)も誰かが演奏したが、後者について巨匠は、レガートの右手に対するスタッカートの左手にこだわっていた。次に≪スケルツォ≫(作品七四)(*)。ヴァルス・カプリス。組曲(作品七一)(*)からポルカ。ビューローは、中間部にでてくる左手の音符の小グループを、ダンサーが不用意に床でスリップしたような箇所だと述べ、ここをいくらか強調すると良いとアドバイスした。彼はこのパッセージをピアノで弾いて説明しながら、「ここは少しウィットを効かせておかないといけない」と言った。

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ヨアヒム・ラフ

(*)ヨーゼフ・ヨアヒム・ラフ(一八二二―一八八二)は、スイスの作曲家・ピアニスト。一時期リストの助手を務めた。門下にエドワード・マクダウェルなどがいる。
(*)作品九一はピアノ組曲第四番ニ短調。なおビューローはラフと生涯にわたる親交があった。
(*)同曲の第二楽章≪ジグと変奏曲≫。
(*)エセルバート・ネヴィン(一八六二―一九〇一)は、アメリカのピアニスト・作曲家。クリントヴォルトやビューローに学んだ。のちにマクダウェルらと並んで切手に描かれるほどの著名人となる(一九四〇年「有名なアメリカ人」シリーズの作曲家五名のうちの一人)。
(*)≪変容≫は三つのピアノ独奏のための小品(作品七四)のうち第三番。
(*)≪スケルツォ≫は三つのピアノ独奏のための小品(作品七四)のうち第二番。
(*)作品七一はピアノ組曲第二番ハ長調。ポルカはその第二楽章。

「ラフの初期作品を見れば、彼がメンデルスゾーンの弟子だとわかる。ラフの交響曲は次の世紀に一層の評価を得るだろう。たとえば≪海の交響曲≫(*)については同じことが言えない」

(*)年代的に、一八五一年のアントン・ルビンシテインの交響曲第二番≪海の交響曲≫と考えれば辻褄が合う。

メンデルスゾーンの作品では、カプリッチョ(作品五と作品二二)とホ短調(*)の前奏曲とフーガの演奏があった。ビューローはメンデルスゾーンの作品が軽視されている現状を嘆き、彼のピアノ曲に含まれてる数々の美について語った。

「メンデルスゾーンを弾くときには、感傷を差し挟むべきではない。楽譜それ自体が物語っているからだ」
とビューローは言っていた。

(*)原文ではホ長調(in E)となっているが誤り。

「ラフのどの歌曲・器楽曲をとっても、主題への回帰は興味深いもので特に注目すべきだ。このホ短調(*)のフーガは、オルガンで言うと一番ソフトな音栓を使ったときのように始めるとよいだろう」

(*)先の注釈に同じ。

最初の授業では、ブラームスについては大まかな話があっただけで、二回目以降の数多くの授業のテーマになった。ビューローはこのハンブルクの巨匠と親しい友人で、ベルリンにいるあいだ彼と連絡を取り続けていた。ビューローはある日の朝、ベートーベンの自筆譜を掲げながら顔をほころばせて教室に入って来た。ブラームスが発見してビューローに送ったものだった。この形見の品を受け取るより嬉しいことは、ビューローには何もないようだった。

授業で取り上げられた最初の作品は、≪ヘンデルの主題による変奏曲 [とフーガ] ≫ [作品二四] だった。ビューローはこの高尚なブラームス作品とすっかり心を通せていて、数多くのパッセージをわかりやすく説明してくれた。彼はフレージングについてとても正確だった。

「ひと息で歌うことができないものは、ひと息で演奏することもできない」

彼はこう言った。

「多くの作曲家は、表現・解釈のための独自の用語を持っている。ブラームスはこの点でとてもきっちりしていた。彼に次ぐのはメンデルスゾーン。ベートーベンは記号をつけることにまるで用心がなかった。シューマンは極度に不注意だった。ブラームス、ベートーベン、ワーグナーは独自の用語を使う権利を持っている。ブラームスは他の人ならリタルダンドという語を使うであろう箇所に、ソステヌートという語を用いることが頻繁にある」

ビューローはブラームス≪八つの小品≫(作品七六)について次のように語った。

「カプリッチョ(第一曲)は速く弾きすぎないように。最初のページは前奏にすぎない。物語は二ページ目から始まる。なんとも見事にメロディが形作られているものだ。非常に独創的でありながら、常軌を逸していない。バッハのジグと比べてみることだ。アンダンテが『引きずること』ではなく『進むこと』を意味するいうことを覚えておくこと」

カプリッチョ(第五曲)を弾いた奏者に、彼は次のように言った。

ステファン・ヘラー(1813-1888)

「君はステファン・ヘラーの≪タランテラ≫(*)みたいにこの曲を弾くんだね。ピアノの演奏では『煽る』ということをよく考えないといけない。自然な煽りでは全然駄目。聴衆はなんとなく煽られてではなく、目に見えてはっきりと煽られて興奮したいのだから。何小節にもわたるディミヌエンドは、複数の『駅』に分割したほうがいい。それぞれフォルテ、メゾフォルテ、メゾ、ピアノ、ピアニッシモという名の駅だ。動物園に行ってみることだ。カンガルーからレガートやスタッカートを学べるから」

(*)タランテラは、イタリア南部のタラントで起こったテンポの速い舞踏曲。ヘラーはタランテラをいくつか書いている。

ビューローは一連の授業でブラームスの≪四つのバラード集≫(作品一〇)も取り上げ、その詩的な内容に新たな光を投げかけて学生を啓発した。一曲目のバラード≪エドワード≫の陰鬱な性格のことや、このスコットランド詩の出典のこと、その詩の内容(*)のことを彼は滔々と語った。

このバラードのオープニングは、古いスコットランドの物語のように悲しく不吉で神秘的である。巨匠はこの曲を十分滑らかに弾くよう求めた。和音の音は抑えめにしつつも、激しい鼓動のように響かせる。二ページ目で力強いクライマックスを作っていく。が、それも三ページ目で絶望のどん底のようなピアニッシモへと消えていく。このページの中程から終わりにかけての下行する和音とオクターブは、不気味な足音のようである。一方、左手の伴奏における休符付きの三連符は、血の滴る音を表しているようである。

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(*)エドワードは嘘をつきながらも最後には父殺しを母に告白、だが実は母こそが父の死を望む本人だったことが後で示唆される。

ビューローは三曲目のバラードも詳しく説明した。この曲は標題も詩句も持たないが、生き生きとした音画である。例の不吉な低音の五度で始まり、最初の二ページは陰気と陽気を不規則に行き来する。二ページ目の終わりで、下行パッセージは絶望の三和音へとつながる。地下牢の雰囲気すら漂う、厳しい絶望の和音である。奏者は急いでページをめくっていた。

「ストップ!」

落ち着きなく教室をうろついていた巨匠は興奮した声で叫び、教室の隅からつかつかと戻るとこう言った。

「待ちなさい。いままでは牢屋にいたが、今は暗闇に日が差し込んでいる。ここではいつも立ち止まるんだ。立ち止まることでコントラストの印象を高める必要がある。この小品は、ことによると現代作曲家の交響曲まる一曲よりも音楽的な作品なのだ」

ブラームス≪二つの狂詩曲≫(作品七九)は二曲とも演奏された。ビューローが言うには、二曲目には、ワーグナー≪神々の黄昏≫のどの部分とも引けをとらないほど情熱的な箇所が含まれている。二曲とも素晴らしくて興味深い作品だ。ビューローはこの二曲を弾いた二人に対し、すべてを立派に響かせるよう、何度も繰り返しアドバイスしていた。

「音程のなかには、例えば四度など、きつく聴こえるものがあるから、そういうものはできるだけ優しく弾くことだ。正しく弾けたとしてもひどい音になることがあるからな。スタッカートのいくつかは、言ってみれば袖から手を振り落とすようにして弾くとよいだろう」

「何か大きな作品を初めて聴く時は、注意を払う点があまりにも多すぎて、その曲をわずかにしか楽しめないものだ。二回目は最初より楽になる。こうして十二回目までには、その曲をすっかり楽しめるようになる。ピアニストは聴衆が初めて聴くような曲を弾くときは、聴衆に配慮して耳障りな不協和音を和らげるよう努めなくてはならん」

「五つの音のグループは、まず二つ弾いてそれから三つ弾く。こうすれば一層際立って聴こえる。学んだことを棄てることは、学ぶことよりもずっと難しいことを覚えておくことだな」

Black Grand Piano Gray Scale Photo

以上でビューローの授業の様子を手短にまとめてきた。この狙いは、楽曲やその解釈に関するビューローの示唆や発言を読者にお伝えすることだった。巨匠の言葉は――儚く消えていかないようにと――授業中に私が急いで書き留めたものであり、私以外の人が読むことをまったく想定していなかった。しかしビューローの教師としての名声があまりにも高まった今、この手短なまとめも教師・生徒双方にとって何らかの価値があるだろう。

ベルリンの教室には緑の庭園に面する長い窓があり、五月の陽光が注ぎ込んでいた。教室の中央にグランドピアノが二台置かれ、壁際には希望に満ちた熱心な生徒たちが並んでいた。小柄な博士はピカピカの床を行き来し、教えたことを実演で説明するため時々ピアノに向かって座った。このときの情景を絵や写真にできたらどんなにいいだろう。この授業に運良く参加できた奏者一人ひとりにとって、心のなかにあるこのときの像は一生の財産である。

芸術的に正しくあること。厳密であること。徹底した演奏力を持つこと。ビューローから教え込まれたこれらの原則は、刺激やひらめきの絶えざる源泉として、あの時のメンバーの心にずっと残り続けるのは間違いない。