30 ウィリアム・H・シャーウッド

ウィリアム・ホール・シャーウッド(一八五四―一九一一)は、アメリカのピアニスト・教師。一八五四年創設のライオンズ(Lyons)音楽アカデミーで学ぶ。ウィリアム・メイソンの夏期講習で才能を見出され、勧めに従い欧州留学、テオドール・クラクやリストに学んだ(リストはシャーウッドの長女の名付け親となっている)。五年の留学後に帰国し、ピアニストとしてデビューし、同じくピアニストの夫人とアメリカ各地を演奏旅行もしている。教師としても活躍。ニューイングランド音楽院で教鞭をとったほか、二十年にわたってピアノ教師向けの夏季講習を開講。またシカゴで新設された音楽学校で教鞭をとった後、同地でシャーウッド音楽学校を設立(形を変えて今も存続)。その運営のかたわら音楽の通信教育にも携わるなど、アメリカの音楽教育に大きく貢献していてる。

私がまだ若い学生の頃、この著名なピアニスト・教師が始めた夏季講習に参加する機会があった。有名な声楽家、ヴァイオリニスト、発声法の専門家を擁していたが、国中からピアニストや教師を引き寄せる磁石は、理事である彼自身だった。

名教師と深い親交を持つための最善の方法は、おそらく、夏季にどこか人里離れた静かな場所でその教師に学ぶことである。都会の生活は慌ただしくて過酷で、生徒へのレッスンも遠慮なく続くなど、なにかとストレスが溜まる。しかし田舎に来れば一転、自由な田園生活を味わえる。田舎でも時間はきちっと守る必要があるが、日や週のどこかでリラックスする時間がとれるし、そんなときは青空の下で友人や生徒と過ごすことができる。

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私が初めてシャーウッド氏に会ったのもこういう状況だった。それまでこの人の演奏を聴いたことがなかったので、夏季講習がピアノリサイタルで始まるのは嬉しかった。私は彼の演奏を楽しんだ。その演奏には力強さも繊細さも備わっていた。音色は格別に甘く美しいもので印象に残った。プログラムにはバッハの半音階的幻想曲 [とフーガ] (*)とショパンの幻想曲ヘ短調(*)があったが、そのどちらについても彼の解釈には叙情性とともに深い感情があった。その後、彼の演奏を聴くたびに、私のこの見方は強化されていった(彼は期間中、頻繁にリサイタルやコンサートを行っていた)。

(*)半音階的幻想曲とフーガニ短調(BWV903)
(*)幻想曲ヘ短調(作品四九)

夏季講習で私はシャーウッド氏から、主にいろいろな楽曲についての解釈上の考えを学んだ。その多くが美しくて啓発的なものだったように思う。その時にとったメモを、できるだけ完全に近い形でここに記しておきたい。状況を説明するために一部個人的なことに触れる必要があるが、これについてはご容赦願いたい。

シャーウッド氏は初回の授業からすでに、音色や解釈のことを上級の生徒にうるさく言った。強調していたのは、練習や演奏をゆっくりと優しい動作ですること、また、音符の背後にあるものを見抜いて作曲家の意図を見出し、音に精神的な意味を与えることであった。彼はおそらく私の知るどの巨匠よりも、ピアノ演奏上の詩的観念を持っていて、しかもそれを簡単な言葉でわかりやすく教える能力があった。

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シューマン

最初に論じられたのは、シューマンの≪四つの夜曲≫ [作品二三] の四曲目である。彼は拡張和音のところで、ピボットのように中指で手を返すという風変わりな弾き方をしていた。同時に手の外側すべて持ち上げる。そうすると五の指は丸みを帯びた豊かな音でメロディの上声を演奏できる。中間部では彼は十分優しくて甘い音色にするように求めた。

「この部分にはいくつか不協和音があります」

彼は言った。

「そこにはアクセントをつけて下さい。私は不協和音のことを、サスペンション《宙ぶらり》と呼んでいます。バッハやヘンデルの時代には、作曲のルールが非常に厳格だったので、サスペンションはまったく許されていなかった。だからサスペンションは、それを書くことが許されないところで仄めかされていたのです」

ショパンの六度のエチュード(*)も分析対象となった。

「このエチュードでは、楽で静かな弱いタッチをして下さい。力をこめて押すようにではなく、滑らせるように弾きます。最初はピアニッシモで弾くとよいでしょう。手首は低めに保ち、指の根の関節はいくらか高くしておきます。指は伸ばしておいてください。各組の音符への準備として指を持ち上げる。で、指が落ちるに任せます。表現が適切かわかりませんが、ひどく鋭いタッチではいけません。ヴェルベットのように柔らかいタッチにして下さい。こういう作品は、日常生活を離れて理想化・精神化されなければなりません」

「例えばショパンの即興曲(作品三六)(*)を見てみましょう。この曲の最初の部分はどこかこのエチュードと似ている。柔らかさと緩やかな起伏がある。そして油のように滑らかです。この即興曲の最初のページには、並々ならぬものがあります。精神的なものがある。神々しいものがある。地上的なものはほとんどありません。二ページ目は最初のページとは鋭い対照をなしていて、仕事で大変な日常生活に直につながっています。鋭くてきつい音ばかりですね。即興曲の最初のページの観念は、六度のエチュードから得られます。ページのままのあからさまな音はいらない。精神的な音にして欲しいのです。ここがアーティストの腕の見せ所です。左手の最初の音は五の指をしっかり固めて弾き、はっきりした鋭いアクセントをつけます。六度の重音は私が示した通り、指を這わせて絡みつくように弾きます。このエチュードを三十分練習した後に、私が生み出せる効果に皆さんは驚くでしょう。十時間かかるかもしれませんが、最後には浮遊感やうねりの効果を出す自信があります。私は前に、リストがショパンの一連のエチュードの大半を弾くのを聴きました。そばに立ってページをめくっていたのです。このエチュードでは、リストは各小節で六度の重音を、回数を倍にして弾いていました。素晴らしくて美しい効果が出ていました」

(*)≪十二の練習曲≫(作品二五)の第八曲。
(*)即興曲第二番嬰ヘ長調。

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テオドール・クラク

「ショパンのオクターブのエチュード(二十二番) [作品二五の第十曲] では、静かでしっかりとしたタッチが必要です。黒鍵では――クラクが説明するように――手首を持ち上げ、白鍵では手首を抑える。手はしっかりと弧状に構える。指先は強く固める。タッチは押さえつけるように、しがみつくように、つかむように。ピアノ演奏では、キーにしがみつく機会があるときはいつでもそうして下さい。このエチュードの第二の部分では、右手は、柔らかくて流れるような詩的なタッチにしてください。左手のパートははっきりさせて下さい。親指は、キーからキーへと蛇のように這わせて移動できるように、特に訓練が必要です」

「ルビンシテインのト長調の舟歌 [第四番] のことですが、最初のページの三度の重音はとても柔らかくて優しいものです。ここの三度では、私はモーションを余分に入れます。指をかなり高く上げて、キーにそっと落ちるようにします。舟歌の最初のページはまったく静かで無色のイメージです。ひっそりした夜、水上に一人。静寂を打ち破る音は一つもありません。三度による繊細な装飾模様《トレーサリー》は、雲のように柔らかく薄いものであるべきです。左手も柔らかく弾きます。しかし最初の拍は軽くアクセントをつけてください。二拍目にはつけません。一拍目は陽、二拍目は陰です。舟歌の観念はここにあります。つまり潮の満ち干きとか、各小節の起伏のことですね」

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アントン・ルビンシテイン

「最初の小節は静かに始めて下さい。第二小節は少し音を大きくします。第三小節はさらに大きくします。第四小節ではまた音を下げます。浜辺に立って大波が打ち寄せるのを見ていると、他より高い波が来ることがあるでしょう。それがこの部分です。締めくくりの六度のパッセージでは、音を徐々に弱めていきます。蒸気が最後にふっと消えるような感じですね。二ページ目では、ポジティブなものが現れてきます。語りかけてくる明確な声がここにはあります。メロディは目立たせて、くっきり、ゆったり、美しく。伴奏の和音はあいかわらず潮の満ち引きのように。寄せては返す波のような動きです。さきほど話した誇張したモーションを、私は多くの方法で行っています。ピアノを鋭くて歯切れのよいタッチで叩くことは誰にでもできますが、そのことではありません。私が言うのは、空中でゆっくり手を動かし、最終的にキーへと優しく指を落として音を出すという一連のモーションのことです。しかもキーへの到達を急ぐのではなく、タイミングが間に合う自信をもってそうするのです。空に石を投げると、やがてストンと鋭く落ちてきます。空へと羽ばたく鳥は、しばらく上空に浮かんだ後そっと降りてきます。この舟歌は決して簡単ではありません。手を自在に動かしながらこなすべき仕事が、この曲にはたくさんあります。この曲はピアニッシモの勉強、力を抑える勉強になるものです」

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ラインベルガー

ラインベルガー(*)のトッカータを取り上げて、シャーウッド氏はこう語った。

「私はこの曲が気に入っています。立派で正直な作品です。とても効果的な曲であり、非常に優れた練習曲でもあります。この曲は毎日弾くとよいでしょう。八分の十二拍子で書かれていて、一小節は四拍になっています。しかしこのことで作品が堅苦しく四角張った性格になっていると私は思います。私は各小節を二つの部分に分けて、それぞれにアクセントをつけていました。皆さんはショパンやシューマンの曲のほうが詳しいと思いますが、この種の曲は特にお勧めします。それとバッハの曲もです。こうした曲を学ぶことで、曲の音楽的な観念を把握する力が強くなります」

(*)ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー(一八三九―一九〇一)は、リヒテンシュタイン出身のドイツのオルガン奏者・作曲家。生前は高い人気を誇った。

ラフの 組曲(作品七二(*))も検討された。シャーウッド氏は言った。
「前奏曲が素晴らしい。私は好きですね。メヌエットは他と比べて音楽的な堅牢さという点で劣りますが、ある種のエレガンスがあって一番人気の曲です。ロマンツァは優美、流麗、メロディアスで、私がとても好きな曲です。締めくくりのフーガは見事な曲。主題が一方の手から他方の手へと、すべて絡み合いながら移っていく。昔のバッハとかヘンデルが、決してやろうと思わなかった方法です。このラフのフーガは、現代的フーガ書法の格好の例だと私は思っています」

(*)原文ではOp.94とあるが誤り。

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ユゼフ・ヴィエニャフスキ

シャーウッド氏は華やかな曲の練習として、ユゼフ・ヴィエニャフスキ(*)のワルツ(*)を生徒に好んで与えていた。

「この曲からは、素晴らしい効果をたくさん引き出すことができます。この曲に対して皆さんは自由です。想像力が豊かであればあるほど、素晴らしい曲になります。スタイリッシュな曲と言ってもよいでしょう。前奏には、あなたが出せるすべての効果を気の赴くままに入れ込んでくだい。ワルツ本体は非常に尊大なスタイルで始まるもので、右手はキビキビしたスタッカートになっています。全体的に過剰なほどなまめかしい曲です。五ページ目には『愛情を込めて《アモローゾ》』とあります。しかし八小節後、青年は自分の父にすべてを打ち明ける! 六ページ目はP《ピアノ》でごく軽く始めます。煙のひと吐き以上のものでありません。空気のように何もない。しかし『だんだん遅く《ポコ・ピウ・レント》』のところでは、現実が底流にある。つまり二つの側面――アクセントがついた物理的・地上的側面と、空気のような精神的側面――が同時に進行しているのです。演奏におけるこうした特質を理解することこそが、技術を理想化するということなのです」

(*)ユゼフ・ヴィエニャフスキ(一八三七―一九一二)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・教師。ヴァイオリニスト、ヘンリク・ヴィエニャフスキの弟。ピアノ小品を多く残す。
(*)演奏会用ワルツ第一番変ニ長調(作品三)のこと。

次にショパン(リスト編曲)≪乙女の願い≫ [S480] が検討された。

「この曲の主題は、優美なレースのようなアラベスクによってしばしば覆い隠されています。その主題を見つけて、表に出さなければなりません。譜の背後に隠されたものを見いだすことができるということには深い含意があります。皆さんは曲の内なる観念を洞察し、それを感じなくてはならないのです。これは技術ではありません。メソッドですらない。演奏の精神化なのです。シューベルトのヘ短調の≪楽興の時≫ [D780] のように、譜をそのまま演奏するだけで立派に聴こえる曲はあります。しかしこの曲でさえ、譜の背後に多くのものを隠しています。それを引き出すことができれば、この曲もかなり変わったものになるでしょう」

「シューマンの二台のピアノのためのアンダンテ [と変奏曲 作品四六] (*)では、主題のタッチは優しく撫でるようにするとよいでしょう。四角張った効果になる十六分の四拍子のところでは、柔らかめに弾くこともできます。二ページ目では、優美な音にアクセントをつけないように心がけてください。毎回五の指にアクセントが来るようにすることです。和音を含む変奏では、つかむようなタッチを。指先の力を引っ込めるタッチと表現できるかもしれない。長く息を吸うことと似ているでしょうか。三連符の変奏は一見ほとんど主題を戯画的に茶化しているようなものに見えますが、シューマンにそういう考えがあったとは思えません。それどころか彼はこの変奏を、とても甘く優しく愛らしいものとして書いた。最後のページにはどこか神々しくて理想的なものがあります。息を吐きだすように弾いて、終わりに向かって徐々に薄ぼんやりとさせていって下さい」

Chopin, by Wodzinska.JPG

ショパン

「ショパンのト短調のバラード [作品二三] は、威厳をもってゆっくりと始めます。導入のメロディは悲しげで、陰気ですらあります。二ページ目の『元の速さで《ア・テンポ》』のところには、同時に進行する四つの部分が含まれています。『今までより強く《ピウ・フォルテ》』のところでは、手の外側を十分に持ち上げて、手首から動かすように注意して下さい。ここには大きな興奮と不安の観念があります。五ページ目では強い力が必要です。レガートのオクターブは、つながりよく持続させて下さい。ここでは不安感が強められ、ほとんど痛ましいほどになります。『生き生きと《アニマート》』のところに来てようやく安心感が出てきます。ここは軽快かつ細やかに弾くとよいでしょう。左手がリズムですね。『急速に《プレスト》』では強い力、強い打鍵が必要です。和音の開始時は、手首を低くしておきます。最初の和音を弾いた後に手首を上げて、二番目の和音を弾いた後に手首を下げます。つねに二番目の和音にアクセントを置いてください。最後の両手の疾走《ダブルラン》はゆっくり始めてください。そこから徐々に速くして、音量もあげていきます。オクターブについても同様で、ゆっくり始めて少しずつ力と炎を増して下さい」

シャーウッド氏は他にも数多くの作品を分析したが、氏の言葉で示してきた上述の作品が私の記憶のなかで際立っているし、またシャーウッド氏がどんな教え方をしていたかをよく伝えているものである。