2 アーネスト・シェリング

アーネスト・シェリング(一八七六―一九三九)は、アメリカ合衆国のピアニスト・指揮者・作曲家。パリ音楽院に学ぶ。レシェティツキやパデレフスキに師事。パデレフスキに学んだ三年間はシェリングが唯一の弟子だった。ヨーロッパや南北アメリカ大陸をツアーし名声を得た。作曲家としてピアノ曲を始め数多くの作品も残していて、存命中はしばしば演奏されていた。交響詩≪戦勝記念舞踏会(The Victory Ball)≫が代表作。ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の「青少年のためのコンサート(Young People’s Concerts)」は、シェリングが一九二四年に始めたものである。

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ピアニストの手

アーネスト・シェリング夫妻は、公園付近のマンションで冬を過ごしている。その豪華な一室に私が座っているとき、離れたところから溌剌としたピアノが聴こえていた。耳慣れない曲だ。音楽室のいくらか東洋的な雰囲気や色合いに調和しているようだった。ここの天井は、梁がめぐらされているどっしりとしたもので、古びた銀のようだった。壁に絵画やタペストリーも掛かっていた。

演奏が終わるとすぐにアーティストが現れた。訪問者である私に優しく親しげに挨拶してくれた。「領主」である白くて美しいブルテリア(*)――雪のように白い毛の犬だった――に伴われて、この有名人はやって来た。彼はすぐに、いちばん快適な肘掛け椅子に深く座った。過ぎ去ったものすべてを静かに、そして深く見つめる人物である。簡単に前置きの会話を交わしているうちに、魅力的な女主人が入って来て、私たちにお茶を入れてくれた。

(*)ブルテリアは、ブルドッグとテリアの雑種犬。

話はすぐに、私が強い興味を持っている、ピアニストの技術トレーニングというテーマに移った。

「技術はかなり個人的なことです」

シェリング氏は始めた。

「というのも技術は多くの個人的なこと――体や心のありかた、その人が持つ気力、手、手首など――に依存しているからです。おそらくピアノにとって一番まずい種類の手は、長い指をした、幅のない長い手です。短い指をした、幅のある短い手のほうがずっと良い」

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ヨゼフ・ホフマン

「ヨゼフ・ホフマン(*)はピアノに向きの素晴らしい手です。どちらかといえば小さい手ですが、太くて肉付きが良い。手首もたいへん重要な要素です。ピアニストのなかには、私が『自然な手首』と呼ぶような手首の人もいます。手首を自然にコントロールできるんです。たとえばオクターブを演奏することは造作もない。カレーニョ夫人(*)はそのような手首です。彼女はオクターブをひとつも難しいと感じていなかった。完璧なオクターブなのです。ホフマンも驚くべき手首の持ち主です」

(*)ヨゼフ・ホフマン(一八七六―一九五七)は、ポーランド出身のアメリカ人ピアニスト・教師。少年期から欧州各地をコンサートで廻っていた。
(*)カレーニョ夫人については別章。

「残念ながら私はそのような手首ではありません。このせいで大いに不利を被ってきました。というのも私は手首のみならず、技術全体を伸ばすのに途方もない練習をしてきているからです。ご存じのように私は少年時代から才能を認められ、当時すでにかなり演奏していました。その後、十五歳から二十歳まであまり練習しませんでした。このころは骨や筋肉が育つころで、すべてが伸びるときなので、本当は練習すべきでした」

「私にとって逆風になったことはまだあります。指の長さです。指関節の並びの幅よりも各指が長い場合、指の長さは長所どころか短所になります。指の余計に長い部分は無駄な重さで、わざわざ手で持ち上げてやらないといけない。この不利もどうにかして乗り越える必要がありました。ええ、おっしゃる通り、私の手は大きくてしなやかで、この点ではなかなか立派な手です。しかし自分の手がリストの手のようだとはほとんど思えません。ショパンの手の像(*)を見たことがありますが、それから判断するとむしろショパンの手と似ています」

(*)ショパン死後に取った型から作られたもの。

「日々の技術訓練について言えば、もちろん私はたくさん音階を弾きます。いろんなやり方でやります。本格的な練習に入ったとき、速く弾けるようにするにはメトロノームを使った練習が最善です。急には必要な速さには届きません。メトロノームは正しいピッチに持っていくのに大いに助けになります。私の手の甲の筋肉や親指の筋肉を見てください。いま調子が良いことがわかると思います。ですが日々の訓練を怠ると、すぐに調子が悪くなります」

「それから私はあらゆる種類のトリルとオクターブを練習します。ええ、演奏者が身に付けておくべき技術として、オクターブは極めて重要な要素だと思います」

シェリング氏はピアノのほうへ行き、話したとおりに実際に弾いてみせながら続けた。

「多くの人がしているように、手を上下にバタバタさせるだけではほとんど役に立ちません。それでは力強さや速さに結びつかない。ご覧のように私は手を弧のようにして固めます。指も同じようにしっかりと固める。手首を緩めて手を上下に動かす。その結果、豊かで明るく歯切れのよい音が出ます。オクターブは、重みをかけてゆっくり弾くこともできますし、切れのあるスタッカートで早く弾くこともできます。私の場合、全音階か半音階のスケールでオクターブを弾きます。各音につき四回かそれ以上連打します。黒鍵には四の指を使います」

(演奏試聴可)

「私はピアノの前で低く座ります。いくらか難しくなるのですが、このほうが音が良くなるからです。正直に言うと、高く座って手に重みをかけるほうが楽です。ええ、私は『重量奏法《ウェイトタッチ》』をすっかり認めていますし、私の通常のタッチもこれです。弾いた後から、腕の重みでキーに一定の圧力をかけるということもあります」

「ええ、おっしゃるとおりです。若い教師や演奏家は、巨匠がまったく指を上げずにいつも重みで弾いているのを見ると、軽率に『ピアノはこの方式で学び始め、あるいは教え始めなければいけない』と結論付けますよね。しかしこのような始め方は間違っています。初めに学ぶべきは正確な指の動かし方です。先に述べたように、技術は個人的なことなので、初めの基本的な訓練の後は、アーティストになりたい人は自ら努力しなくてはいけません。堅苦しいメソッドは存在しません。どんな場合にも当てはまる一般的な決まりがいくつかあるだけです。人より秀でたいなら自助努力することです」

「ピアノ譜の暗譜は三つの方法で達成できるといえるでしょう。目・耳・手を使うのです。まずは本を読むのと同じように、楽譜をすべて目で読む。これで譜になじみ、印刷物として譜がどう見えるかを理解する。だんだん心のなかに譜の映像が浮かぶほどになり、必要なときには特定の小節やフレーズを書き出せるほど正確に思い出せるほどになる。こうしている間ずっと、私は心の耳で音を聴いて馴染んでいくのです。そして第三の段階が来る。すべてを鍵盤に乗せなければならない。指の訓練が必要です。心にある印象を指へと伝えないといけない。こうして、すべてが完成を見るのです」