28 オシップ・ガブリロヴィッチ

オシップ・ガブリロヴィッチ(一八七八―一九三六)は、 ロシア出身のアメリカのピアニスト・指揮者。ペテルブルク音楽院でアントン・ルビンシテインらに学び、卒業後ウィーンでレシェティツキに二年間師事。その後欧米各国をツアーし、ピアニストして成功を収めた。一方ベルリンでニキシュに指揮を学び、現在のミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者としても活躍。あるシーズンにはピアノ協奏曲の発展を振り返る、六回にわたる歴史的なコンサートを指揮している。アメリカに拠点を移したあとはデトロイト交響楽団の音楽監督に就任。指揮・ピアノ両面で名声を博した。私生活では、マーク・トウェインの娘(同じくレシェティツキの生徒)と結婚している。

独特のタッチ

現在活躍中のアーティストが生みだす多彩な音色や効果について、アーサー・ホックマン(*)(ロシア人ピアニスト・作曲家)と話している時、ホックマンは私にこう言った。

「私にとってひときわ輝いているピアニストがいます。その名はガブリロヴィッチです」

(*)アーサー・ホックマンについては別章。

この稀有なアーティストがピアノから引き出す音質は忘れがたいものである。彼は親切にも、落ち着いて私とお話する機会をつくってくれた。あなたは甘美で歌うような音を、どのようにして出しているのでしょうか――。その日の朝、私が訊いたのはこれである。

「美しい音のことですか。どれだけ時間をかけても、言葉で言い表すのは非常に難しいですね。そもそもそれは実験的なことであり、個人的なことでもあり、さらには経験と記憶にかかわることです。理想の表現が見つかるまで聴き、音を出し、修正していくのです。それから、どう弾いたらその音が出せたのかを記憶するようにします」

「私は自分がつねに美しい音を出していると言うことはできません。独特の音を出そうとしてはいますが、それが美しくないこともあります。美しさとはかけ離れた音のことも多いのです。音を出すということに、決まった規則や方法は存在し得ないと私は考えています。同じ人はいませんし、同じ手の人もいませんから。ある人にとって意味がある方法も、別の人には無意味かもしれない。手首を高くして弾くほうが簡単だと感じている人もいれば、低い手首の方が楽だと言う人もいる。指を曲げて弾く人もいれば、指を伸ばして弾く人もいる。もちろん基本的な原理はいくつかあります。そのひとつは腕と手首をリラックスさせることです。指を緩めなければならないこともしばしばです。ただし第一関節は別で、ここは常に固定しておきます。一番楽で動かしやすい手の姿勢にすることをお勧めします。窮屈だったり硬直したりしていれば問題ですが、目的にかなっているなら実際はどんな手の姿勢でも構いません。良い音が出せるなら、私は高い手首も低い手首もともに認めています。今言いましたが、第一関節は固定したままにしておく必要があります。弱くて華奢な手の子は、重い和音に負けて第一関節を崩してしまいますが、決してそうならないように保って下さい」

技術の練習

「曲とは別のところで技術を練習するのはもちろん良いことだと思います。音階やアルペジオの練習は必要です。その際メトロノームを使ってもよいでしょう。しかしたとえ技術エクササイズであっても、それを音楽的に弾こうとする努力には意味があると私は信じています。音階を弾くときでも、美しく多彩な音で弾くことです。ツェルニーのエチュードを弾くときも、ベートーベンのソナタを弾くときと同じくらい注意深く立派に弾くことです。エチュードから音楽的なクオリティをすべて引き出してください。『この小節を十六回弾いたら終わりにしよう』などとは言わないでください。何ごとも、機械的な目的だけのためには弾かないことです。すべて音楽的な観点から弾くのです。ええ、生徒にはツェルニーをいくらかやらせています。と言ってもさほど多くはありません。ショパンやルビンシテインのエチュードのほうが好きですね。私も使っているものですが、ルビンシテインには六つのエチュードのセットがあります。スタッカートのエチュードも含まれています」

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アントン・ルビンシテイン

「形式面であれ内容面であれ、技術を強化するのに必要な方法は人によってさまざまです。あなたも学んだウィリアム・メイソン博士(*)が書いた『タッチと技術(Touch and Technic)』には、役立つことがたくさん載っています。私はかなりこの本を利用しています。私が知る限り、博士は重みの原理を説明した最初の人です。今やこの原理はヨーロッパと同様、ここアメリカでもかなり広く受け入れられています

(*)ウィリアム・メイソンについては別章。

「古代の有名な哲学者セネカは、『二十五歳までに――自分の医者になれるほどに――物事に通じていな人は愚かである』と言ったとされています。この考えをピアニストに当てはめてもよいでしょう。何年もピアノを学んだ人は、どういう技術エクササイズが自分に一番有益かを発見できるはずです。できない人は愚かです。なぜ他の人の作ったエクササイズにいつも頼らないといけないのか。教本や技術論は無数にあって、これらはエクササイズを発明した人が書くものですが、そのエクササイズは著者自身の手に合わせたものであるのが通例です。つまり必ずしも他の人の手に合わない。私は生徒には、自分自身の技術エクササイズを編み出すよう後押ししています。なかなかうまく作ってくれていますよ。他の人が作ったエクササイズをやるより自作エクササイズをやるほうがずっと楽しいみたいですね」

「ピアノ演奏でいちばん大事なのは、豊かで丸みのある正確な音を出すこと、およびフレーズをはっきりさせること、この二点です。最もありふれた問題は、音をごまかしたり飛ばしたりして演奏を不明瞭にすることです。ピアノ演奏では明瞭性は絶対に不可欠です。ハムレット役の俳優はまずはっきりと喋って観客に理解してもらわなくてはならない。それなしにはどれだけ役柄を研究しようと無意味です。これと同じように、ピアニストもまず自分を聴衆に理解してもらう必要があります。だから音ははっきりと出さなくてはならないのです」

速さ

「速さをものにするのが難しい人もいると、あなたはおっしゃるんですね。一般に、曲を速く弾いて大急ぎで終わらせる傾向があると私は感じています。時間をかけて曲をはっきりさせたり理解できるものにしたりしないんです。音やフレーズが非常にはっきりしている時、曲は実際の速さほどには速く聴こえません。というのも曲のすべての部分が互いに適切な関係にあるからです。私が書いたガボットの小品――何度もパリで弾く機会がありました――によって、このことを説明してみます。ある優秀な女性ピアニストがこの曲を知り、練習して覚えました。彼女は演奏を聴いて欲しいと言って私を訪ねて来た。それでピアノの前に座って、この曲を一気に最後まで弾いた。しかし、ほんとうに自分の曲なのかと思うほど歪んでいました」白黒 升目 アブストラクト 抽象 曲面 メランコリック 市松柄 メランコリー 不安 柄 パターン 背景 背景素材 陰影 陰鬱 沈鬱 バック バックグラウンド background チェック black white 鬱 ゆがみ 歪み ねじれ ひずみ

「演奏後、この女性に注意したのですが、彼女は『あなたがこの曲を演奏するのを三度聴いたことがあります。だから私の演奏のテンポがあなたの演奏のテンポときっかり同じだということは保証できます』と言うのです。私は自分自身の演奏のテンポをこのとき正確に把握しました。その上で彼女にこう諭しました。『私のテンポは君のテンポとはたいして変わらないにもかかわらず、私の演奏がゆっくりと聴こえるのはなぜでしょう。それは、私の演奏ではどの音もどのフレーズもはっきりしていて、すべてのバランスがうまく取れているからです』と」

「私がどのように力を出しているかというご質問ですね。力は手や腕の大きさとは関係ありません。かなり小柄な人でも、演奏上必要な効果を出せるだけの力を持っていますからね。力は繊細なものです。力を出すには、腕や手首のリラックスがもちろん必要です。指を鍛えて、腕や手の重みに負けずに持ちこたえられるくらいにしてください。繰り返しますが、第一関節はいついかなるときも固定しておいてください。忘れがちなことなので、常に意識しておく必要があります」

ガブリロヴィッチと妻クララ

曲の覚え方

「曲の覚え方について言えば、私には特にルールもメソッドもありません。曲は自然に覚えていくもののように思われます。覚えるのが比較的容易な曲もあれば、バッハのフーガのように懸命な取り組みや詳細な分析を要求するものもあります。難しい曲を覚える一番確実な方法は、記憶を頼りにそれを書き出してみるということです。これは非常に有益です。人名や地名を覚えたいときには紙に書きますよね。目で見ることによって心のなかに一層鮮明な印象が残ります。これが視覚的記憶です。オーケストラと共演する場合、私はもちろん自分の弾くパートと同様、オーケストラが演奏するすべての音符がわかっています。総譜を記憶から書き出すことは、ピアノソロを記憶から書き出すことよりもずっと大変な事です。それでもこの方法は、曲を心に留めるのに最も確実な方法です。小さな頃に覚えた曲はずっと忘れないようです。そういう曲は私を離れずつねに私の元にあります。一方、成長してから覚えた作品については気配りが欠かせません。このことが、誰にでも当てはまる一般的な経験であることは間違いありません。小さい頃に心に刻まれたことがいちばん長持ちするものですから」

「オーケストラの指揮者は、総譜を見ないで指揮ができるほど作品に精通しておくべきです。私は過去数年間、かなり指揮をしてきています。昨シーズンは、モーツァルトから現代までのピアノ協奏曲を振り返る、歴史的なリサイタルシリーズを開催(*)し、ラフマニノフ協奏曲で掉尾を飾る、都合十九の協奏曲を指揮しました」

(*)一九一二年から一九一三年にかけてのシーズンに全六回公演で行われた。別のシーズンにアメリカのいくつかの都市で繰り返し、絶賛された。

ガブリロヴィッチ氏は教育活動を完全にあきらめ、自分の時間をリサイタル・コンサート・指揮・作曲に捧げている。