2 練習の技術

練習時間

ピアノで自己完成を目指すピアニストに必要なのは、手の姿勢・体の状態・正しい指の動作といった基本を十分に身につけること、タッチや音づくりに関して極めて細かいところにまで注意が行き届くようになること――。これが今まで確認してきたことである。

ピアノリサイタルを聴き終えたばかりの人がよく言うことがある。それは「あんなふうに演奏できるなら何でもする!」という言葉である。しかしこういう人は、上達に必要な時間をかけることさえしないのではなかろうか。このような人が、ヴィルトゥオーゾになるために必要な無限の忍耐・疲れ知らずの活力・不屈の粘り強さをみせることも当然あるまい。

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実際のところアーティストは練習にどれぐらいの時間を必要としているのだろうか。パデレフスキは、リサイタルツアーの準備期間は時間をすべて練習に捧げていると打ち明けている。一年のうち特定のシーズンになると、大半のアーティストが毎日多くの時間をかけて練習をしている。ゴドフスキーは絶え間なく練習をしているし、バーナムは午前をまるごとピアノの勉強に捧げている。ジャーメイン・シュニッツァーは毎日六時間練習し、練習できなかった日の分はすぐにどこかで埋め合わせる。エレノア・スペンサーは、彼女が古めかしく表現したとおり、「空いた時間はすべて練習している」という。プロのピアニストは、実際の鍵盤上での練習に毎日多くの時間を費やす必要があるばかりか、鍵盤以外でも時間をかけなくてはいけない。プロの練習は目の前にピアノがあるかどうかにかかわらず、心の中で続いているのだ。

練習内容

私たちが一番知りたいことは、「時間をいちばん活かすことができる練習方法、最高の成果が出る練習方法とは何か? どんなエチュードを使うのがよいか? 技術の教本で一番役立つもの、効果の出るものは何か?」ということである。

完成された技術で尊敬されているヴィルヘルム・バックハウスは次のように言っている。

「私は古いタイプの人間でして、音階やアルペジオの練習を今もなお信じています。現代のピアニストのなかにはこういう練習をしない人がいるみたいですが、私は非常に重視しています。といっても、音階練習のときに必ずしもすべての調で行うわけではありません。一度にいくつかの調を選択して取り組むのです。最初は馬鹿げたほど単純な形から開始します。親指を手の下にもぐらせたり手でまたいだりして何度か上行・下行の練習をします。しかしこれで、音階とアルペジオがちゃんと弾ける手の調子に戻ります。アルペジオは一日三十分ほど練習しています。私は週に一度か二度、自分の技術を全部見直さなくてはいけません。すべてがうまくいってるかを確かめるためです。音階やアルペジオも見直しの対象になり、私はこれらをさまざまなタッチで練習します。しかしレガートによる練習が比較的多いです。レガートは他よりいくらか難しく、それに美しいものですからね。私は可能な場合は、バッハも含めて技術練習を一時間しています」

ジグムント・ストヨフスキは、毎日の練習ルーチンに音階とアルペジオを含める必要があると考えている。

トゥエル・バーナムは言う。

「私は練習時間のうち少なくとも一時間を音階・アルペジオ・オクターブ・和音といった技術、そしてバッハ(!)に費やします。私が良いと思っている練習方法は、バッハのまとまった曲集を完全なものに仕上げる――あらゆる調に移調して、どの調でもできるだけ立派な演奏にまで磨いていく――というやり方です。エチュードでも同じことが言えます。数多くのエチュードを適当にやるより、少数のエチュードを仕上げるほうがよいのです」

「メカニック」としてのピアニスト

ミュンヘン在住のアメリカ人ピアニスト・教師であるエドウィン・ヒューズは言う。

「テクニックは演奏における機械的な部分です。それを常に良い状態に保っておくために――機関士が機関車をいじり運転手が自動車をいじるのと同じように――常にメンテナンスしておく必要があります。賢い生徒なら誰でも、演奏の機械的側面の維持のために特に有益なエクササイズは何かということがわかっています。それにもとづいて技術練習の日課を立てられるでしょう」

テレサ・カレーニョはピアノを始めた頃、彼女の教師が大作曲家の難しいパッセージをもとに書いてくれた、数多くの技術エクササイズをしたという。何百もあるので、通して弾くのにまる三日かかったそうだ。彼女はこのエクササイズには計り知れない価値があると考えていて、自分自身の練習や、教育活動において常に利用している。各エクササイズはすべての調で、しかもありとあらゆるタッチや音色で弾かなければならない。

パデレフスキは純粋な技術練習に毎日多くの時間を割いている。彼は一つの調で音階とアルペジオを、休みなく一気に四十五分弾くことで知られている。音階もアルペジオもさまざまなタッチと速さで、またさまざまな強弱による陰影で演奏される。

以上のように多くの巨匠ピアニストが毎日の技術練習や、曲を離れた純粋な技術練習の意義を信じていることがわかる。他にも多くのピアニストが、音階・和音・アルペジオ・オクターブを毎日の練習ルーチンに取り入れていることを証言している。なかでもオクターブの練習が非常に役に立つと話してくれるピアニストが何人かいた。ピアニストたちはこうした練習が、優れた技術を習得したり、手をコンサートで演奏できる状態に保ったりするために必要不可欠だと感じている。

特定のエチュードを贔屓目に見ているアーティストもいる。たとえばバックハウスはブラームスのエチュードを強く勧めている。どのアーティストも、技術練習に絡めてバッハを利用している。実際バッハの作品は、純粋な技術原理を体現していると考えることもできる。ピアニストとピアノ教師はバッハの曲を毎日必要なもの考えている。

エクササイズを編み出す

純粋に技術だけを練習することと並行して、アーティストたちは練習中の曲からエクササイズを編み出している。両手のために書かれているパッセージを片手で弾いたり、単音をオクターブに変えて弾いたり、弱い指を使えるようにするために必要以上に難しい指づかいで弾いたり、リズムを変えて弾いたり、ほかにもいろんなやり方で負荷をかけて弾いている。これによって、元々書かれている通りにパッセージを弾くのが実際たやすいものとなる。

技術を極めるには他にも「移調」という方法がある。バッハの曲は楽譜通りに弾くのでも十分難しいと思うかもしれないが、アーティストたちはバッハの曲をさまざまな調で難なく弾きこなす。

バーナムはメイソン博士との初期のレッスンで、バッハのインベンションを練習してくるように言われた。そのとき博士は、暗譜してくるのもよいでしょうと何気なく言った。この意欲的な生徒にとってこの言葉は十分過ぎる示唆となり、彼は次回のレッスンまでにそのインベンション一曲だけでなく、全曲まるごと暗譜してレッスンに臨んだそうだ。

パハマンはあるとき教師からバッハの前奏曲とフーガを練習してくるように言われ、家で二十四曲全部を練習して、次のレッスンにはすべての調で弾けるようになっていたと言っている。ピアノの技術や作品をマスターしようとこれほど熱心だったのだ。

パハマン(1848-1933)

練習ではゆっくりと弾く

「速く弾く練習は必要だと思いますか? それとも曲に求められている速さで練習することが多いでしょうか?」

アーティストたちはしばしばこういう質問を受ける。多くのピアニストはとてもゆっくりと弾いて練習している。これはウィリアム・H・シャーウッドの習慣だった。

ハロルド・バウアーは、速さは各人固有のものであり、パッセージを完全に身につければ、それを必要な速さで弾くことができると信じている。

バックハウスは、速く弾く練習はめったにしないと証言している。パッセージをマスターすれば、それをどんなテンポでも演奏できると彼は言う。彼は次のように語っている。

「速く弾く練習をする人もいますが、私はしていません。練習で速く弾くことはめったにありません。それをやると音が明瞭でなくなります。私はゆっくり弾く方が好きです。はっきりした良質の音になるよう最大限に注意しながら弾くのです。この線で進んでいけば、速く弾きたい時には速く弾けることが私にはわかっています」

クラレンス・アドラー(1886-1969)

クラレンス・アドラーは、速いテンポは知らないうちに後から身につくので、常にゆっくりとした練習から始めるよう生徒に助言している。まずは曲を徹底的に学ぶこと。表現記号をすべて守り、すべての指づかい・アクセント・強弱の記号をマスターすること。速く弾くことを考えるのはそのあとの話である。

「私自身、ほとんど信じてもらえないほどゆっくり弾いて練習しているのです」

とアドラーは付け加える。

いくつかの例外

曲とは別に技術練習をするのが望ましいとするのがピアニストの一般的な総意だが、これにはわずかながら例外がある。ゴドフスキーは、音階練習を一切やらないと言っている。バウアーは作品自体のなかに技術練習の要素が十分含まれていると考え、純粋な技術練習にほとんど関心を寄せていない。

このような輝かしい例外が、かえって一般的な原則――技術練習を大事なものとみる考え――の正しさを証明しているだけなのかどうかは、思慮深いピアノ学習者が自分で判断しなければならない。現代のピアノ演奏では、元気・健康・真剣な目的・心の豊かさだけではなく、完璧な技術が求められていることはすでに理解されているだろう。

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ポッサール夫人

ライダー=ポッサール夫人(*)は言う。

「アーティストにとって技術的背景は不可欠なものです。技術の重要性は二義的なものだとはいえ、技術がなければどうにもなりません」

ピアノ演奏に必要な技術を身につけるためには、曲とは別に技術だけに時間と思考を捧げる必要がある。思慮深い生徒はこの事実を見逃さないだろう。まずは技術の原理を理解すること。そしてルーチンを決めて練習に励むこと。そうすれば一番早く一番確実に最高の成果を手にすることができる。生徒は自分をどうにかしようと頑張らないといけないわけだが、巨匠も同じだと思って勇気を持ってほしい。巨匠にとっても技術は骨の折れるものであり、ずっと取り組まなくてはいけないものである。彼らもゆっくり弾いて、少しづつ覚える必要があるのだ。

アーティストと、才能のあるアマチュアを分けるものは何か。それは多くの場合、集中力や忍耐力、最高の理想を追い求める心の違いである。

(*)コーネリア・ライダー=ポッサール(一八六五―一九六三)は、アメリカのピアニスト。コンサートでヨーロッパ各地で廻った。

ポッサール夫人の演奏が試聴可(19曲目)